2016年6月15日

 舛添さんの問題は決定的局面を迎えつつあるが、いつも話題になるのは「石原さんのほうがもっとすごかったのに、なぜ問題にならなかったんだろう」ということだ。舛添さんをかばうことはしないけど、腑に落ちない気持ちが残るんだろう。

 これって私には国民にとってのリアリティの問題のような気がする。石原さんはやはり大物で(イメージだけかもしれないけど)、東京都のおカネを使った豪遊も半端じゃなくって、都民からあまりにかけ離れた存在だった。出勤もしてなかったし。だから、何をやっても、どこか人ごとという受け止めだったのではないだろうか。

 ところが舛添さんは、少なくとも今回の問題を通じて、とっても身近な存在になった。なんだ、子どもに「クレヨンしんちゃん」買ってるんだ、自分と同じだみたいに。自分がおカネを払って買っているものを、舛添さんの場合は政治資金を使うので財布を出す必要がないというところが、あまりにリアリティがありすぎて、怒りが具体的になってしまうという感じかな。

 変なたとえ話だけど、ソ連と中国もそんな感じじゃないか。日本国民の感じ方の話。

 どちらも日本国民にとってイヤな国だけど、ソ連の場合、想定されていたのは、アメリカとの全面核戦争である。米ソはともに、相手の国を何十回も全滅させるだけの核兵器を配備し、脅かしあっていた。日本はそのなかで、アメリカの側にたっていて、何かあったら三海峡を封鎖したりする作戦を担う予定だったわけだが、最後は核によって世界が全滅するということにならざるを得なかった。

 あまりにすごいことで、キューバ危機の頃はともかく、次第にリアリティを感じなくなっていたんではないだろうか。昨日、戦後の防衛政策を長く担ってきた海原治さんの「オーラルヒストリー」に目を通していたら、米ソ全面戦争はあり得ないと考えて防衛政策を立案していたのかという質問に対して、「はい、そうです。私はあり得ないと思うが、仮にあったとしても、その時には何もできないということです。だから考えない」と答えていた。そんな事態になったら何もできなくなるとき、人は考えなくなる。

 一方、中国に対しては、核兵器の数だって少なくて、脅威は感じるが、米中が世界を全滅させる核戦争を戦うことを真剣に心配している人はあまりいないだろう。だからこそというか、無人の島を守るためにアメリカが兵士の命を差し出すなんてあり得ないと思うし、中国の尖閣へのアプローチが次第に国家的なものになっているし、そういう脅威はリアリティをもって受けとめるのではないだろうか。

 ということで、舛添さん、短い間でしたけど、ご苦労様でした。