2017年4月10日

 先週は国内外で衝撃的なできごとが相次いだけど、あまりに忙しくて論評できなかった。国際的には、いうまでもなくトランプさんのシリア空爆である。ツイートの発信ボタンを押すような軽さで、空爆の命令を下したように見える。ホントにこの人に核のボタンを任せるんですかと、震え上がるような気がした。

 国内的には教育勅語かな。憲法と教育基本法に反しない範囲なら学校で教材として教えてもいいという政府答弁書だ。

 これって、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定と同じく、何十年も続いてきた憲法の解釈を、一内閣の閣議で変えるものである。集団的自衛権のほうは、安保法制懇の設置など、それなりの手続きと議論があったが、そんなものさえ皆無だという点で、異常である。

 教育勅語のどこが間違いだとか、ここでは書かない。私の立場は明白であって、それを書いても、誰も読む気にならないだろう。私として気になるのは、この問題を今後、どう国会で追及していくのか、その論理である。

 閣議決定までしたわけだから、それを覆すことは容易ではない。どう追及しても、政府は、「憲法と教育基本法に反しない範囲なら問題ない」と繰り返すだけだろう。そして、その繰り返しの中で、憲法と教育基本法に反しない中身があるという論理が教育現場を縛っていくことになる。「なぜ、夫婦が仲良くすることが憲法違反なのか」という雰囲気が醸成されていく危険もある。

 私としては、「教育勅語は憲法違反だという考え方もある」と質問してほしいと思う。「反しない範囲がある」という答弁は崩せなくても、「反するという考え方はある」ことを認めさせてほしい。そのことによって、そうやって教育する自由を拡大するようにしてほしい。

 だって、これまでは、「反する」というものだったわけだ。有名な「教育勅語等排除に関する決議」(1948年6月19日)の衆議院決議は、これを憲法98条(「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」)にしたがって排除したわけだ。そしてその決議の際、文部大臣も、「新憲法の精神に合致しがたいものであることは明らかであります」と所見を述べたわけだ。

 それが当時の国会と政府の考えだったこと、それ以降、その解釈を変えるような閣議決定は(今回まで)なかったこと、だから教育現場では「反する」ということになってきたこと、学校の先生はそうずっと考え、教えてきたこと等々を、一つひとつ確認してほしい。

 その上で、政府の現在の立場からすると「反する」とまでは認められないわけだが、「反するという考え方はある」ことの正当性までは立証してほしい。死守すべきラインというか、対決軸をとりあえずそこに置くと言うことだ。

 だって、69年間、そうやって教育してきたものを、閣議決定一つで教員の考え方は変えられないでしょ。指導要領で「反しない範囲がある」から教えていいと改定されたわけでもないので、教員にはこの閣議決定に従う義務もないと思うし(ここを突っ込んでいくのは危険かもしれない)。

 こうして、「反するという考え方」を教員が教える自由が確保できれば、その先も見えてくるかもしれない。どうでしょ。