2017年4月12日

 本日から東京。日曜まで。長いな。

 護憲派や左翼界隈では、突然有名になった「日本会議」の評判が悪い。でも、これだけ騒がれているのに、講演会などに行くと、これを「にほんかいぎ」と呼ぶ人が多い。由緒正しい「にっぽんかいぎ」なので、間違わないように。前身となった「日本を守る会」や「日本を守る国民会議」のときは「にほん」だったんだけどね。

 まあ、それはどうでもいい。昨年9月、『「日本会議」史観の乗り越え方』を出したとき、身内だけで盛り上がっていてはダメだと思い、「日本会議」で運営委員(籠池さんと違って全国規模での)をやっている有名な方にも贈呈した。そうしたら、しばらくしてお手紙が来て、本の評価をいろんな点でしていただいた。

 印象的なのは、「松竹さんと私では、おそらく7割ぐらいは意見が一致する。だけど、残りの3割では決定的に対立する」と書かれていたことだった。私も同じように思う。

 例えば、その方が書いていたのは、朝鮮半島を植民地支配したことの評価である。私は、ごく単純にいうと、当時の世界では、列強が植民地を持つことは国際法上認められていて(いまは違法だが)、日本が植民地を持つことも合法だと考えられていたと思っている。しかし、欧米が遠く離れたアジア・アフリカの地を植民地支配したのと異なり、日本の場合、何千年も隣人であった国を支配したという点で決定的に異なるのであって、合法だから許されるというものではないという立場である。

 その方が言うには、松竹さんの立場は、純正右翼にも共有できるものだということだった。はあ、そうですか。

 一方、「日本会議」といっても人によって歴史観はさまざまで、「許されるものではない」という点で、意見を異なる右派も存在する。「日本はいいことをした」とか言う連中だ。

 つまり、植民地支配は違法だったか合法だったかを基準点として、そこに左右の違いを置くと、右と左は決定的に対立することになる。そして、純粋な市民運動は違法だったという認識を多数にしようとがんばっているが、国際政治においてそれは多数ではないので、右の方が世論的にも多数を占めることになる。

 けれども、左の方が違法化合法かを対立軸にせずに、「日本はいいことをした」という連中を相手にすれば、相手が少数になる。昨日の記事と同じだが、対立軸の置き方次第で、多数になったり少数になったりするということだ。

 理想を追い求める市民の論理と、その時点での国民の多数がついていける政治の論理と、その二つがうまく結合すると、左も多数になれると思う。市民の論理と政治の論理の区別と関連をうまくつかめていないので、なかなか少数派から抜け出すことができないのだけれど。

 その「日本会議」運営委員の方の手紙には、同会議が歴史のシンポジウムをするようなことがあったら、松竹さんをお呼びして議論したいと書かれてあった。楽しみだな(ホントはコワいけど)。