2013年6月6日

 ずっと慰安婦問題をみてきたものとして、この点は大事なのではないかと感じる。結論を出せるほど考え抜いてはいないのだが、少しだけ感じるところを。

 安倍さんと橋下さんの言っていることは、ほとんど同じなのだ。強制連行を否定したり(安倍さんの場合は狭義の強制ということだが)、河野談話を問題にしたり。

 だけど、安倍さんの発言は、アメリカからはきびしい批判があったが、日本国内においては、左翼層からの批判がいつものようにあるだけで、中間層へのひろがりがなかった。それをよしとする世論もあって、自民党や安倍さんが選挙で勝利することにもなる。

 ところが一方で、橋下さんの発言に対しては、アメリカはもちろん、日本国内での批判がつよい。普通の日本人が嫌悪感をもっている。

 橋下さんにあって安倍さんになかったのは、「慰安婦は必要」という発言だろうと思う。沖縄での米軍への勧めも、男にとってそういうものが必要だという見地から来るものだ。

 男というものはそういうものだ、女というものもそういうものだ、そういう考え方が如実にあらわれたところに、批判が強まる背景にあるのではないだろうか。要するに、人間に対する見方の貧困である。

 安倍さんのときには、「日本人がそんなひどいことをするわけがない」「日本はそんな国ではない」として、支える世論を形成した。ところが、橋本発言に対しては、「日本人がみんなそう考えていると思われたくない」「日本人として恥ずかしい」という感じの受け止めになっているように思える。

 つまり、同じ日本人としての誇りという感情が、この二つのケースでは、まったく逆に作用している。ここを考えなければならない。

 何が言いたいかといえば、今後の安倍さんをどういう角度で批判していくのかだ。安倍さんは、強制性の有無を問題にしているわけだが、そこに議論を集中すると、細かいところに入り込んでいって、世論と乖離するかもしれない。

 そうではなく、安倍さんも橋下さんと同様、慰安婦は必要だと考えているのかということが、突きどころかもしれない。当時の軍は慰安婦を必要としていたのかという角度でもいい。

 強制の有無は別にして、慰安所は軍が設置し、管理したものだから、軍が慰安婦を必要としていたことは否定できないはずだ。そうすると、安倍さんも橋下さんと同じ人間観に立つことになる。それが日本人として恥ずかしいではないかという角度の追及につながっていく。

 さあ、どうかなあ。もう少し考えます。