2013年6月17日

 この問題が議論されることは大事である。これまで否定的に見てきた人のなかにも、橋下発言が契機になって、「実は恥ずかしいことではないのか」と顧みる人も出てきていているようだし、勉強する人が増えてくるのは歓迎である。

 そして、だからこそ、この問題で何を求めるのか、整理しておく必要を感じる。要求に論理的な整合性がなくなると、付いてこられな人がでてくるから。整理すべき問題はたくさんあるが、とりあえず、要求の内容と根拠が大切だと思う。

 そもそも、慰安婦のことが大きな問題となった90年代初め以降、要求の中心は国家による謝罪と賠償であった。しかし、何を根拠にしてそれを求めるのかでは、いろいろ難しい問題が横たわっていた。

 日本政府は、この問題は65年の日韓基本条約と請求権協定で解決済みという立場をとっていて、それをどう打開するかということが求められていた。そして、この時期に根拠とされたのは、人道問題は国家間の条約では解決済にされないという、新しい国際法の流れであった。65年の条約、協定で解決済みとされているが、国家がそう決めたからといって、人道犯罪の被害者はそれには拘束されないということでもあった。とりわけ、この協定は経済問題を扱ったものであって、人道問題は議題にもなっていないことが強調された。

 その後、いろいろな経過ははしょるけれども、日韓条約交渉の過程での議事録が公開され、個人の請求権の問題もこの条約と協定で解決済みにされたという「証拠」が出されたりして、韓国側も悩む。そして最近になって、韓国政府は、請求権協定の第3条で、条約の解釈について両国間に相違がある場合は外交交渉で解決するとなっていることを取り上げ、慰安婦問題の交渉を求めるようになる。日本の運動の側でも、この韓国の要求をもとに、政府に解決を求める意見が生まれた。

 しかし、ここには論理的な矛盾がある。請求権協定自体が、謝罪と賠償を求める韓国側と、それを拒否する日本側の交渉の結果、他の国と結んだ「賠償協定」という形式をとらないためにつくられたものである。賠償を支払うのではなく、先ほど書いたように、植民地支配時代の経済的な損失について韓国側が請求し、日本が経済協力という考え方もあわせてお金を支払うというものなのだ。だから、韓国では一時期、この条約と協定の破棄を求める数十人の国会議員が、国会に決議案を提出したりもした。

 90年代、慰安婦問題というのは、経済的な損失の問題ではなく、国家が犯した人道的な犯罪問題だというのが捉え方だった。だから、謝罪と賠償を求めたはずである。ところが、請求権協定の枠内で解決するとなると、要求の性格が経済的な損失の問題になってくるわけだ。

 それはそれで大事な考え方だろうと思う。謝罪と賠償にはならないけれど、女性基金と異なり、国からお金が出るなら前進であって、それで解決していいというのも、ひとつの解決方法だ。

 ただいずれにせよ、十分な議論と整理が必要な問題ではあると思う。ひとつの本にするくらい、大事な問題だと考える。つくるとするか。