2013年6月5日

 橋下徹大阪市長の発言が大きな問題となっている。この問題で、かもがわ出版は多くの本を出している。
 もっとも最近のものは、4月発売の『「村山・河野談話」見直しの錯誤 歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』(シリーズ安倍新政権の論点Ⅲ)。これ以外に、現在発売中のものは、以下の通りである。
 『司法が認定した日本軍「慰安婦」』『「慰安婦」と心はひとつ 女子大生はたたかう』
 すでに品切れになっているものもある。
 『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』・『「慰安婦」問題と女性の人権』

 慰安婦問題というのは、90年代初頭、韓国人慰安婦が日本で裁判を起こすことによって、大きな問題となった。女性が自分の意に反して慰安婦とされ、戦地に送り込まれたわけであって、人道的に許されないことは明らかだった。だから、いくつもの本をつくってきたわけだ。

 慰安婦に関する本というのは、率直に言って、あまり売れない。安倍さんや橋下さんのように、日本国家として悪いことはしていないという立場の人が買わないだけではない。慰安婦問題への国家責任を認める人にとっても、自分の生まれた国が、これだけの残虐なことをしてきたという事実を次々に突きつけられることは、とてもつらい作業なのだと思う。

 ただ、慰安婦問題とは、そういう生々しいだけのことではない。国際政治とか国際法とか、あるいは日本の歴史とか、日本の国のありようを考えさせてくれる問題でもあり、そういう角度でも読んでいただければと思う。

 たとえば、日本政府は、この問題は決着済みだというのが基本的な態度である。1965年に結ばれた日韓基本条約と関連協定によって、日本が植民地支配をしていた時期の問題は、すべて解決したというものだ。もし、慰安婦に対して何らかの支払いが必要であるとしても、それは条約にもとづいて日本が韓国に支払ったもののなかから、韓国政府が支出すべきものだというのが、日本政府の基本的な見地だ。

 実際、それが国際政治、国際法の常識である。それに対して、どういう論理で謝罪と賠償を求めるのかということが、この問題を理解するうえで欠かせない。個人に対する重大な人権侵害というのは、国家間の条約で決着というわけにはいかないという、新しい考え方が生まれている。まだ主流ではないが、そういう流れを促進する立場に立つのか、いまは主流だとはいえ、過去の立場にしがみつくのか問われる。慰安婦問題を学ぶことは、そういう問題を学ぶことでもある。

 あるいは、人道的な責任と法的な責任の区別、関連という問題も重要だ。たとえば河野談話は、「数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省」を表明する(93年)とのべ、本当に心からのお詫びの気落ちが伝わってくるものだ。また、この談話の思想で村山内閣時代につくられた「女性基金」は、総理大臣の名前で謝罪の手紙を個々の慰安婦に渡し、若干の支払いもおこなった。当時、韓国だけでなく、インドネシアとかフィリピンでも慰安婦問題は焦点になっていただ、それによってこれらの国では大きな問題にならなくなった。

 ところが韓国ではまったく解決しなかった。そこには、「河野談話」と「女性基金」の謝罪が人道的なものにどとまっていて、法的な責任を認めたうえでのものではないとする考え方があるとされる。なぜ韓国と他の国は、そこで分かれることになったのか。法的責任と人道的責任って、どこがどう違うのか。法的な責任がはっきりさせたら、慰安婦問題は解決するのか。慰安婦問題を通じて、そういう複雑なことにも思いをはせることが可能になる。

 関連して植民地支配の問題。私には、韓国でだけ問題が解決しない最大の要因は、慰安婦それ自体の数の多さということもあるだろうが、韓国だけが日本の植民地とされ、言葉や名前を奪われたという経験があると思われる。そして、そのことを、現在に至るまで、当時の国際法に合致していたと日本政府が言い張っていることにあると思われる。当時、世界の列強が植民地支配をしており、日本もその仲間入りをしただけだ、他の国が合法でいまも法的責任を追及されていないのに、なぜ日本だけが問題になるのかという思想がここにはある。 けれども、日本の植民地支配は、欧米によるものとはかなり異質である。日本は、何千年もの間、ぎくしゃくもあったけれども共存してきた国を植民地にしたのだ。ヨーロッパにたとえると、ドイツがフランスを植民地にして、フランス語を禁止し、名前もドイツ風に変えさせたようなものだ。いくら欧米列強といえども、そんなことを合法だとはいえなかったし、やらなかった。

 そういういろいろな問題を、慰安婦の本を読むと考えることになる。是非、手にとって読んでいただけれと思う。