2013年8月16日

 いえいえ、昨日の記事で、護憲派からも改憲派からも嫌われそうだと書きましたよね。同じことを『憲法九条の軍事戦略』のまえがきでも書いたんですが、じつは、そんなに嫌われなかったみたいです。

 『憲法九条の軍事戦略』は、初刷り1万部で始まりましたが、近く3刷りに突入します。そういう成果もあるので、『集団的自衛権の深層』の初刷りは、もっと多くなるそうです。その結果、値段も安くなって、前著は196ページで760円なんですが、今回は200ページを超えるのに740円だそうです。うれしいな。

 もちろん、護憲派であれ改憲派であれ、ある種の人には嫌われると思うんです。でも、九条も大事だと思うけど、自衛隊にも活躍してほしいと思っている人たち、すなわち国民の圧倒的多数の人は、もっと具体的な対案を望んでいると思います。昨晩のNHKスペシャルを見ていても、そういう方々が多数だと実感しましたし。

 今回の本は、そういう方々の気持ちに合致していると思います。すでに、この本の出版をふまえ、各地で講演会とか連続講座とかが企画され、年内はいっぱいいっぱいですが、その隙間をぬってあといくつかはお受けすることが可能だと思います。

 ということで、『集団的自衛権の深層』のプレゼント実施です。これでブログを通じて11回目のプレゼントなんですよ。

 ただ、このブログは、会社の公的なブログです。他社で出版する本を、ここでプレゼントするわけにはいきません。ということで、すでに更新を停止している古いブログで実施します。希望する方は、そちらにいってくださいね。

2013年8月15日

 そうですか。私は、中国がどこかの国に侵略されるなら、中国を助けなければならないと考えるのですが、それは甘い「理想論」ですか。

 でも、中国が侵略されるということは、いま中国に住み、働く多数の日本人の命が脅やかされることなんです。もし幸いに、邦人救出が成功したとしても、侵略によって中国経済が大混乱に陥るなら、日本経済はもちろん世界経済だって、回復可能な打撃を受けます。

 それが分かっていても、侵略される中国を前にして、何もしないですか? 日本の国民世論は、日本人の命が奪われるとか、日本の経済が崩壊することよりも、大嫌いな中国が侵略されることの方が大事ということになるでしょうか。

 そんなことはないと思いますけどね。もちろん、自衛隊が中国を助けに行くのかどうかは、別の問題ですけど。

 その自衛隊が何をすべきかという点で、『集団的自衛権の深層』で提起していることは、護憲派からも改憲派からも異論が出されると思います。非武装・丸腰の自衛隊を停戦監視のために海外派遣することを提案しているからです。自衛隊の海外派兵は、それにとどめるべきだという提案です。

 護憲派にとっては、自衛隊を海外に出すこと自体が許せないことでしょう。改憲派にとっては、自衛隊が海外に行くときは、堂々と武器を装備し、堂々と武器を使用することを望んでいるでしょう。

 でも、私の提案は真剣なんです。理由はいくつかあります(詳しくは本を見てね)。

 紛争が起きて、それを終わらせるためには、どこかで紛争の終結を監視する部隊が必要となります。国連は、そういう場合、非武装の軍事要員で構成される停戦監視団を送ってきました。

 これまで、そういう仕事は、中立的と見られてきた北欧諸国がやってきたんですね。だけど、その北欧諸国も、たとえばノルウェイはアフガニスタンに行って、人びとを殺戮する仕事をしています。だから、信頼されなくなっているのが現実です。最近、シリアに停戦監視団が行ったけど、何もできないで撤退しましたが、その団長がノルウェイの軍人でした。

 一方、日本の自衛隊は、これまで海外で人を殺したことがありません。それが紛争の停止をになう仕事をしやすくしています。数年前、その仕事をするため、ネパールに送られましたが、見事に成功しましたし。

 結局、自民党が考えているのは、自衛隊を他国の軍隊なみにしたいということだけなんです。他国と同じように武器を使用できる自衛隊にしたい。それだけ。要するに、日本が何をやることが、武力紛争を終わらせるうえで必要なのかという角度からのものではない。

 集団的自衛権で自衛隊に武力行使をさせるのが自民党の提案ですが、そうではなくて、武力を行使しないことが世界の平和にとって大事だと思います。それが自衛隊の役割です。まだ続きますが、明日はプレゼント。(続)

2013年8月14日

 本日の京都新聞は、一面トップで、集団的自衛権を取り上げている。「集団的自衛権 米以外も」というタイトルで、秋に発表される安保法制懇の報告が、アメリカだけでなくオーストラリアやフィリピン、インドなども集団的自衛権の対象に含むことになりそうだという記事であった。日本の安全保障にとって大事な国なら、まもる範囲を拡大するという趣旨である。

 みなさん、そういう記事をみて、どう思うのだろうか。アメリカをまもるというだけでも問題なのに、それ以外の国をまもるなんて問題外、という感じなのだろうか。

 私はまったく別の感想をもつ。なぜ、まもる国をそんなに限定しなければならないのだろうか、と感じるのである。

 だって、この問題の出発点は、どこかの国が侵略されたとして、その事態に対して日本はそう対処するかにある。国連憲章第51条は、「国連加盟国に対して武力攻撃が発生した」ときに、集団的自衛権を行使できると書かれている。侵略があるなら、同盟国かどうかは別にして、みんなで助けようというのが、この51条の建前である。

 私は、この規定は、きわめて常識的だと考える。だって、どこかの国が侵略されたとしたら、その国が同盟国かどうかにかかわらず、助けたいと思うのが、自然な感情なのではないのだろうか。憲法があるので助けられないというのでは、あまりにも恥ずかしいのではないのだろうか。もちろん、助ける行為の形態が、武力の行使かどうかは別なのだけれども。

 ところが日本政府は、集団的自衛権というのは、同盟国だけを助けるものだという立場をとってきた。だからこれまで、憲法9条によって集団的自衛権を行使できないことになっているという制約を打ち破り、なんとかアメリカだけは助けられるようにしようともがいてきたわけである。

 私は、こんどの本で、こういう日本政府の思考方法を、「二国平和主義」と位置づけた。自民党は、現在の憲法9条の立場を「一国平和主義」として批判してきたが、自分たちだって、まもるのは日本とアメリカだけという、「二国平和主義」なのである。

 いま求められるのは、もっとグローバルな平和主義である。安保法制懇が主張するように、安全保障環境は大きく変化しているが、その変化は、政治的な立場をこえて、平和を脅かされた国は助けようというものである。ところが自民党が考えているのは、世界を敵と味方にわけて、味方だけは助けようという、きわめて古い思考なのである。

 じゃあ、中国がどこからか侵略されたとして、自民党政府は知らん顔をするのか。そんなことをすれば、中国の日本に対する恨みはもっと深まるのではないのか。侵略された中国を助けておけば、いざというときに日本にとっていい結果をもたらすのではないのか。

 いまの安倍内閣は、そんな程度のことも考えられないのだろう。困ったことである。(続)

2013年8月13日

 4類型から全面容認へという路線転換の背景には、もうひとつの事情があると思われる。国民に対する説得力という問題だ。

 安保法制懇の最初の報告で4類型が選ばれた理由のひとつは、集団的自衛権の必要性にリアリティをもたせるためだったと思う。

 たとえば第1類型。台湾海峡をめぐる米中対決において、アメリカの艦船が中国に攻撃を受けるというのは、あり得ない想定ではない。実際、そういう際にどうするかを想定した法律が、米中の双方に存在する。独立を宣言した台湾に対して中国が武力介入し(中国はそのための反国家分裂法を制定している)、それに対してアメリカが介入する(アメリカはそのために台湾関係法を制定している)というものだ。日本の周辺事態法も、この事態が念頭におかれている。

 あるいは第2類型。アメリカに向けてミサイルが発射されるというものであるが、北朝鮮がアメリカ本土に向かうミサイル開発に力を入れているのは、いま目の前で進行している事態である。

 ただ、これらの事態も、現実に国民のなかで議論がはじまれば、説得力に疑問符のつくものだ。よくよく考えると、「本当に日本がそれをやるのか?」と疑問が出てくる。

 たとえば、中国の武力攻撃を受ける台湾を助けようとアメリカが軍事介入したとして、そのアメリカの艦船を中国が攻撃するというのが、第1類型であるが、その場合に日本が中国に反撃するのは、国連憲章第51条が定める「集団的自衛権」の要件を満たしているのだろうか。国連憲章は、「加盟国に対する武力攻撃が発生」したときに集団的自衛権の行使を認めている。台湾への中国の武力攻撃はどんな理由があれ許されることでないとはいえ、台湾そのものは「加盟国」ではなくなっている。そのときに、それを助けるアメリカが攻撃されたからといって、すんなりと集団的自衛権として合法化されるとは思えない。

 ミサイルへの対処についても、多くの方がイメージするのは、飛行する(あるいは落ちてくる)ミサイルを反対側から(あるいは下から)、撃ち落とすというものだろう。だけど、これは柳澤協二さんの受け売りだが、北朝鮮や中国から米本土にミサイルが発射された場合、それを日本が迎撃するためには、飛んでいくミサイルを後ろから追いかけて撃ち落とすという形になる。向かってくるミサイルに正確に当てるのも至難の業なのに、先行するミサイルに追いつくスピードでミサイルを発射するなんて、技術的に不可能。それでも米本土へのミサイルを撃ち落とそうとすれば、まだ発射されない状態で攻撃するとか、そんな話になってこざるを得ない。それは、集団的という言葉がつこうがつくまいが、決して「自衛権」の話にはならない。

 ということで、具体的になればばるほど説得力に欠けると思って、政府は、方向転換を図っているのかもしれない。そのあたりはもっと見極める必要があるけれどね。(続)

2013年8月12日

 この本、今週中に再校のゲラを仕上げて、私の手を離れます。9月17日が出版予定日。世の中でもこの問題が焦点になりつつあるので、タイムリーなものとなるかなあ。ということで、今週は、この問題をとりあげます。金曜日にはこの本のプレゼントについて告知するので、お盆真っ最中だけど、関心のある方は訪ねてきてください。

 さて、この問題では、安倍さんの安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)の座長代理を務める北岡さんが、読売新聞、朝日新聞へと連続的に登場した。集団的自衛権推進派による世論への働きかけは、今後大規模に強まることになるのだろう。

 ところで、このふたつのインタビューの中心点は、この秋に安保法制懇が出すとされている提言(以下、新提言)で、集団的自衛権の全面的な容認へと舵を切ることにあるとされる。読売の記事のタイトルも「集団的自衛権 全面容認提言へ」となっている。これは、安倍第一次内閣の際の安保法制懇の提言(以下、旧提言)が、いわゆる4類型(米艦船が攻撃されたとき、アメリカ本土に向かうミサイルが発射されたときなど)に限って容認するとしていたものを、そういう限定を外して全て容認するようにするということを意味している。

 しかし、これは最初からミスリードである。旧提言が4類型を重視して、その実現のための論理構築をしているのは確かである。しかし、その4類型に限って憲法解釈を変え、集団的自衛権をそこだけ容認するというものではなかった。集団的自衛権を全面的に容認する憲法解釈を行ったうえで、政策的に実施するのは4類型に限るというものだったのは、当時を知るものの共通認識のはずである。

 実際、自民党のつくった国家安全保障基本法も、そのような構成になっている。つまり、自衛隊が4類型とは異なるような軍事行動に及ぶことがあるとして、その行為は法律違反に問われることがあったとしても、憲法上はどんな行為も全面的に合憲になるというのが、旧提言の趣旨であったわけだ。この種の報告書がつくられるとき、いつも「限定」したとか「制約」をもうけたとか言われるが(それが旧提言は4類型だったし、新提言でも何かのことはやると北岡さんは言っている)、集団的自衛権の全面容認という点では、ずっと一貫しているという印象を受ける。

 それなのになぜ今回、「全面容認」ということがそれほど強調されるのか。そこには、改憲勢力が衆参ともに多数を占めるに至った事態を利用し、できる限りのことをやってしまおうという意気込みが感じられる。もしかしたら、これまでは自衛隊の海外派遣に際しては、それを承認する個別の法律をつくってきたが、解釈改憲に成功し、特定の軍事行動が集団的自衛権に違反するかどうかという微妙な判断をする必要がなくなれば、そのような個別の立法は不要になるという判断があるのかもしれない。つまり、今後は、アメリカから求められたら、国会で何かの議論や判断なしに、ただちに自衛隊出動になるということでもある。(続)