2014年2月6日

 昨日から東京。日曜日まで滞在する。

 昨日の午前中は、会社の東京事務所の会議で、みっちりと企画を議論した。出したい本はいっぱいあるけれど、仕事する体の数は限られているし、資金も限られているし、順序をどうするかとか、何に集中するかを判断しなければならない。むずかしいね。

 夜は、日本ジャーナリスト会議出版部会の世話人会である。出版関係者の会議なので、関心をもつ情報が集まるのも意味がある。

 近く(3月6日午後6時半)、出版部会が主催し、岩波新書で『タックス・ヘイブン』を書いた志賀さんをお呼びし、講演会を開くのだ(岩波セミナールーム)。それに関連した資料が配られたのだが、そうですか、いまやタックス・ヘイブンは、中国共産党の幹部まで活用しているんですか。習近平の義兄の名前が出てくるのは不思議ではないにしても、清廉だということになっていた温家宝前首相まで、その息子がバージン諸島の企業を資産管理に活用しているとか。クレディ・スイスは、首相在任中にその息子のためにコンサルタント会社を設立したそうだ。

 いやあ、汚職との闘いは、公式的には、中国政府の主要課題のはずだ。それなのにこんなことでは、真剣さが疑われても仕方がない。日本やアメリカの多国籍企業などは、タックス・ヘイブンを利用することは節税であって、脱税ではないから合法だという立場らしいが、中国は、資本主義のそういう側面もとりいれ、「発展」しようとしているのだろうね。社会主義らしさが少しでもでてくる可能性は、どこかに少しでもあるのだろうか。

 出版業界の暗い未来も話題になった。昨年の販売金額は、前年比3.3%減で、ピーク時の1996年と比較すると63%にまで落ち込んだとか。とりわけ雑誌の落ち込みが激しく、返品率(出荷したが売れ残って返ってくる率)が、統計をとりはじめた58年以来はじめて、書籍の返品率を上回ったとか。

 そんななかで、年間給与を100万円引き下げた会社の話とかも聞いた。逆に、ある小さな出版社は、今年9人の新規採用をするとか。いろいろだねえ。うちの会社はどうなるんだろうか。ジュンク堂の売上げをみると、288位に入っていて、他の左翼出版社を引き離しているけれど、経営は楽ではない。というか、こんなに仕事しているのに、なぜ少しも楽にならないのかと、ときどき先が見えなくなるよね。

 ということで、きょうは、先日入稿した二つの本の仕上げを東京事務所でおこない、校了。地道に仕事するしかありません。明日は、共産党の元大幹部の本に取りかかります。複数あって、大変です。

2014年2月5日

 この問題は複雑だね。結論も大事だが、それにみちびくまでの経過が大事な問題だというか。

 一般的にいって、日本のように民主主義が保証されている社会では、選挙ボイコットというのは戦術として不可だと思う。選挙の自由がないとか干渉の危険があるとか、そんな社会では、選挙に参加しないことで、選挙の正統性を問い、政府を追い詰めることは十分にありうることではあるけれど。

 もちろん、どんな問題にも例外はある。独裁国家などでのボイコット戦術だって、結局は、その戦術を際立たせることで、国際的、国内的な世論に訴え、その支持を得ようとするものだから、世論が反応しないなら、逆効果になるのだ。それと同様、ボイコット戦術が橋下市長を追い詰めるような世論形成に資するなら、あり得る選択肢だと感じる。松井府知事が、共産党が候補を立てることを歓迎する発言をしているのも、そういう不安を感じているからだろう。

 ただしかし、ボイコットを決めた自民などの思惑が、単純にそうではなさそうだということも考えなければならない。報道されているように、大阪で対抗馬をたてれば、中央で安倍政権と橋下維新との蜜月な関係がくずれ、今後の集団的自衛権問題での協力に否定的な影響があるという思惑もありそうだ。

 しかも、前回の選挙では超党派で平松さんを応援したわけであり、その後の維新の凋落ぶりをみれば、同じ構図で闘えるなら勝てる見込みがある。橋下さんを倒せる可能性があるのに候補は立てないというのでは、前回の選挙で橋下さんの当選を阻止しようとした気持ちはどこまで本気だったのかが問われることになる。

 しかし、しかし、じゃあ、超党派では無理だけど、スジを通して共産党が独自の候補を立てるという決断をしたとして、それが最良の選択かというのは、また別の問題になる。橋下さんを追い詰めたいという市民の世論が、ボイコットを支持するのか、それとも(橋下さんが当選したとしても)スジを通す方を支持するのかが、大きくかかわってくるからだ。

 それに、今回、独自の候補ということになると、次の選挙での共闘の可能性は少なくなる。候補を立てないという自民党などには、そういう思惑も渦巻いているだろう。

 そういういろいろな要素があって、考えるべきことが多いから、やはり政治というのはアートである。結論はどうあれ、そんなことをどう判断したのか、その経過が悩みなどもふくめて伝わることが、市民の支持を得る上で不可欠だと感じる。

 まず全野党の統一候補の可能性を探るというのは、現時点で考えられるベストの選択である。その結果がダメだったとして、じゃあ独自候補という判断になるのかは、以上あげたいろんな要素をどう考えるかにかかってくるので、別の問題になるけれども。

2014年2月4日

 都知事選挙、最後の週だということで、ますます盛り上がっている。舛添さんの独走らしいから、脱原発派は必死だよね。

 昨日、鎌田慧さんらが記者会見し、宇都宮さんと細川さんの両陣営に一本化を呼びかけたという。敗北した上に、二人あわせて舛添さんを上回る得票数だったら悲劇だと主張したらしい。

 まあ、気持ちは分からないではない。だけど、私の見方は異なる。

 今回の都知事選挙は、ずっと言っているように、脱原発のためには、左翼政党と市民運動の枠を越えて、まじめな保守との協力が必要だという自覚が生まれれば、大きな意味がある。そういう成熟がない段階で一本化をよびかけることは、それをめぐって批判の応酬があることが予想され、さらに溝が深まるだけのような気がするなあ。

 現在の局面は、昨年からすると一歩前進なのである。昨年までは、脱原発は国民世論の多数を占めていたが、左翼や市民運動派に政治をゆだねることへの拒否反応も強く、脱原発派は政治の舞台では少数にとどまっていた。しかし、その国民世論の前進のなかで、保守のなかにも矛盾が生まれ、脱原発をかかげる保守というものが生まれてきた。協力が深められれば、国民世論の多数派から政治の舞台の多数派へと向かえる局面が、ようやく目の前にあるのである。

 そういう保守とどう協力し合うのかというのは、新しい問題である。これまで保守陣営にいた人たちだから、市民運動派からみれば許せない実績とかもあるだろう。だから、いまの局面にふさわしく、新しい探究と模索が必要とされているのだ。脱原発のためには過去の問題は留保するのか、いや留保するくらいなら脱原発が実現しなくてもいいのかなど、真剣に考えなければならない。

 論争の中身についても、共同のための論争とは何かを深めることが大事だ。敵を追い詰めるための論争をするのか、仲間として協力し合うための論争をするのかで、論争の中身も態度も変わってくると思うのだ。

 そういう論争は、何よりもまず、どんなに批判するにしても、「脱原発では協力し合いたい」ということを明確にのべるものでなければならない。選挙では論争し合うけれども、選挙後は気持ちよく手を組もうと主張することが大事である。

 言葉遣いも大事である。実際につきあいがあるわけではない相手を批判すると、ついついきつい言葉が飛び交うことがある。だけど、その相手と明日は顔をつきあわせて協力し合うのだと思えば、言葉も選ぶことになる。協力するか敵対するかで、そういうことも変わってくるのだ。

 選挙だから、誰が当選するかということは大事である。だけど、今回の都知事選は、脱原発とか護憲とかの課題を、保守も含めていっしょにやっていけるきっかけとなるかどうかに、最大の試金石があると感じる。

2014年2月3日

 近く、この本を出します。『魯迅の愛した内山書店』。サブタイトルは、「上海雁ヶ音茶館をめぐる国際連帯の物語」です。著者は本庄豊さん。
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 先日、中国現代文学を教える大学教授の方とお会いしたんですが、この本、これまで知られなかった第一次史料も発掘して使っているそうです。文学史的にも貴重な本になっています。

 同時に、私がこの本がいいなと思うのは、この記事のタイトルにあるような角度です。帯に「いま、日中の人々はどういう関係を築くべきか その原点がここにある」とありますが、それは私の率直な思いです。

 日中友好運動のなかでは、「日中友好」とか「連帯」とか、そんな言葉が聞かれます。当然のことです。

 だけど、そういう言葉を使っている人は、その言葉にどんな気持ちを込めているのでしょうか。もちろん、尖閣問題などをめぐって危うい関係がありますから、戦争になってほしくない、平和的に友好的にという思いがあるのは自然でしょう。問題は、どんな連帯、友好が求められるのかということです。

 魯迅の生きた時期というのは、いわゆる「対華21箇条要求」からはじまり、満州事変へと続く時代です。だから、日中連帯という場合、その中心が日本の侵略に対して、日本と中国の人民がどう連帯するかということにあったことは確かです。

 同時に、中国では当時、国民党政権が反共の立場から、抗日闘争の統一を望む人々を弾圧もしていました。魯迅も弾圧される側に身を置いていました。だから、この場合、内山書店を経営していた完造や美喜は、国民党政府と闘う魯迅を支え、連帯していたわけです。

 こうして、日本政府の侵略政策と闘う日本の人々と、国民党政府の暴圧と闘う中国の人々がいて、それが連帯し合っていた。これが当時の事情でした。この本は、そういう連帯の構図をよく描いています。

 そして、それは、いまの日中関係にとっても不可欠な視点です。尖閣をめぐっても必要なことは、領土問題は存在しないとして話し合いもしようとしない安倍政権を批判する日本の人々の闘争と、尖閣問題を力で解決しようとする習近平政権を批判する中国の人々の闘争と、それぞれを発展させ、連帯し合うというのが求められているのだと思います。

 そういう関係のさきにしか、この地域の平和と安定はないと感じます。そういう自覚をこの本を通じて広げたい。