2015年4月6日

 昨日の菅さんとの会談は、何というか、政治家としての格の違いというものを感じさせたね。NHKのニュースだったか、翁長さんが「粛々と」という言葉を菅さんが使うことの問題点を指摘して、それを受けた菅さんが会見でこの言葉を使えない姿を映したわけだが、それだけで勝負があった気がした。

 安倍さんをはじめ政府が翁長さんとの会談に応じないことについて、子どもじみているし、日本国民の代表者としてふさわしくないという批判があり、それはそれで正しい。だけど同時に、翁長さんと会って議論すると、政府の道理のなさが白日の下にされされてしまうという事情もあるんだろうね。

 「粛々と」だが、本日になって菅さんは、この言葉は今後使わないと明確にした。これって、実質的なところでは譲歩しないけれど(工事を中断することはないけれど)、言葉くらいなら譲ってやろうと菅さんは思っているかもしれないけれど、そんな程度は済まないものになるような気がする。

 翁長さんがこの点を指摘したのは、どういう脈絡でかというと、沖縄が米軍の軍政下にあったときのことと搦めてである。菅さんの言葉が、キャラウェイ高等弁務官の姿と重なると指摘したのである。

 キャラウェイって、私もよくは知らないが、ウィキペディアによると、アメリカの日本大使であったライシャワーが、沖縄の自治権を拡大し、財政援助を増やそうとしたのに、それに反対した人物として知られているという。ライシャワーは、自分の回顧録で、キャラウェイのことを「独裁者」とまで表現しているようだ。1963年3月。キャラウェイは演説で、「沖縄の自治権を強く欲する住民は、彼ら自身で政治を行う能力はない」とまで発言したとされる。

 菅さん、キャラウェイのこと、誰かに教えてもらっただろうか。こんなキャラウェイと菅さんが同じように見えるって、翁長さんの言葉はきついよね(当然だけど)。

 でもね、翁長さんのきついところは、沖縄を支配したアメリカの高等弁務官と菅さんを比べたこと自体にはない。そうではなくて、アメリカのなかにも、沖縄のことに少しは気を配るグループと、ただ弾圧するだけのグループがあることを前提に、そのうちの後者と同じだと言ったことが、物事の本質を言い当てていて、とってもきついと思う。

 つまり、日本政府の対応は、ただアメリカに追随しているというだけではなく、先頭に立って沖縄を抑圧する側に回っているという批判なのである。会談の最後に、抑止力の考え方からすれば、沖縄の基地をもっと後方に置く考え方もアメリカ側にあるのに、日本政府が沖縄に引き留めようとしているのではないかと危惧の念を表明しているのも、それと同じ立場の表明である。

 そういう意味をもった「粛々」である。それを言葉として使わないと追い詰められたわけだが、それが意味するものは、果てしなく深いと思う。