2015年4月28日

 安倍首相の訪米が歴史認識との関係で注目されている。安倍さんの歴史観がアメリカの歴史観と衝突するわけだから当然だ。

 だけど、安倍さんが堂々として揺るがないように見えるのは、自分の歴史観に国民の支持が多いということを背景にしている。アメリカ頼みで安倍さんの歴史観を牽制しようとしても(それに一時期は成功したように見えたとしても)、国内世論を変えていかないと、根本的なものにはならない。

 だいぶ前、ある新聞記者から、「安倍さんを歴史修正主義者だと思いますか?」と聞かれた。私の答は、「歴史修正主義者と言えるほど歴史に通じてはいないのではないか。だって、安倍さんの口から出てくる言葉は、身内の人の発言を聞きながら覚えた、まさに耳学問の言葉だから」というものだった。

 ただ、その身内の人の発言というのが、安倍さんにとっても、安倍さんを支持する人にとっても、心地よい発言であるわけだ。日本はこんなひどい国だと言われるより、日本はいい国だと言われる方が、聞いていて気持ちがいいことはたしかで、安倍さんへの支持は、そういうベーシックな国民感情を基盤にしているから、壊すのはそう簡単ではない。

 だから、その国民感情に寄り添いながら、ちゃんとした歴史観を提示するという作業が必要だと思っている。いかがでしょう。

 実際、日本の栄光と日本の自虐は、一体のものだと感じる。たとえば、日本が侵略の道を進んでいったことは事実としてあるわけだが、同時に、その道を進んだのは、アジアのなかで日本だけが欧米並みの水準の国になったという、栄光の事実の裏返しなのだ。

 日本は一流の国になろうとしてがんばった。その成果もあった。不平等条約を撤回し、平等なものにした。でも、平等なものにするために、日清戦争や日露戦争で朝鮮半島を我が物にすることが求められた(当時の欧米の水準はそんなものだった)

 そのあたりの関係を、うまく書けないかなと思っている。栄光の歴史観に浸っている人に対して、「そうだよね」と共感しながら、「でも、栄光だと思っていたから、自虐的なことになったんだよね」と提示できるようなものだ。そして、あなたの栄光史観って、自虐史観と同じだよねと、最後は切って捨てることのできるようなものだ。

 それが次回作の構想。まだ構想とまでは言えないけどね。