2015年4月14日

 昨日、東京都の国立市へ。学校図書館向けのイスラム本に関わっている方に、この周辺に住んでいる方が多いので。

 いまの局面があるので、どうしてもつくろうと思って開始したけれども、そう簡単ではないというのが、昨日の議論をふまえた感想である。

 たとえば、監修をお願いしている方のお孫さんの話。何か納得できないことがあると、「イスラム国」という言葉を発するらしい。それくらいイスラムという言葉が、ある固定観念をもって国民のなかに浸透しているもとで、何をどう本にしていくのか。結論がすぐに出るような問題ではない。

 しかも、今後、イスラムがどうなっていくのか、それが見通せない。ISISだけでなく、イスラム世界全体のことである。

 イスラム研究者の間では、国境線が今後どうなっていくのかに、大きな注目が集まっているそうだ。当然のことであろう。

 だって、いまの国境線は、宗教とか民族とかに関係なく、欧米が勝手に引いたものである。そこで国家をつくってやってきたが、内部の対立を克服できている国は少ない。イラクなんか、そういう数少ない国のひとつだったのに、アメリカがそれを壊してしまった。

 グローバル化が進んで、国境や国という概念が相対化しだしたことの影響もある。イスラムの人にとって、国境線自体が押しつけられたものだったわけだが、グローバル化によって、国境を越えて宗教や民族で結びつくことが、より大きな意味をもちはじめた。

 シリアはいくつに分かれるだろうとか、サウジアラビアはどうだとか、研究者の間では、そんな議論が日常的に飛び交っているらしい。そんなことになれば、いちおうは国民国家としてまとまってきたトルコなんかにも飛び火して、ぐちゃぐちゃになっていくのかもしれない。

 そんななかでイスラムをどう描くのか。よく研究し、考えている人ほど、悩みが深いのだ。

 変化をどう説明するかという問題もある。たとえばイスラム世界では女性の人権が侵されていると言われるし、実際にそうなのだが、7世紀頃は、イスラムが男女平等の問題ではもっとも先進的だったらしい。

 なぜそうだったのか、それがなぜ現状のようになったのかまで書かないと、正確に記述したことにならないだろう。だけど、子ども向けの本で、どこまで書くのか。

 まあ、でも、書けないとダメだよね。本が書けないということは、子どもに何を伝えるか分からないということで、あってはならないから。試練の日々だね。