2015年7月8日

 4月に『慰安婦問題をこれで終わらせる。』を書き終え、小学館から出してもらったけど、この本、もともとは『超・嫌韓流』というタイトルで準備していた。そのタイトルで分かるように、慰安婦問題だけということではなく、日韓の歴史問題全般を扱いたいと思っていたわけだ。

 それだけでなく、本当は、近現代史における日本の戦争をどう見るのかということが、ずっと私の心のなかで引っかかっていた。河野談話にはじまり、細川さんの侵略戦争発言、村山談話が出されていく過程で、右派の大攻勢が展開され、現在のような世論状況が生まれている。

 一言で言えば、それまでの歴史観が「自虐史観」ということで批判の対象になった。それに替わって、日本の歴史は栄光の歴史だということで、「栄光史観」と名づけるべきような歴史観が、ネット右翼というレベルにとどまらず、かなり広い範囲に行き渡っているように見える。いわゆる歴史修正主義が幅を利かせるという状況であるが、そこを打開する言葉が必要だとずっと思っていたのである。

 その過程で、従来の歴史学の立場から、「栄光史観」に対する強い批判があった。それは大事なことで、歴史学会的にいうと歴史修正主義は通用しないということになるのかもしれない。だけど、国民世論的にいうと、その批判は国民の心をつかむものになっていない。

 従来の歴史学からの批判は、大雑把にいうと、「自虐史観」という批判に対して、日本が犯した罪のひどさ、深さを次から次へと提示していくというものだった。それって、「自虐」という言葉は使わないけれど、やはり日本の歴史は「自虐」にふさわしいものだという立場だ。
 
 でも、日本は「自虐」にふさわしい国だといわれて、国民の多くは気持ちがよくない。本当にそういう国なら、それを認めないとダメだろうけど、一方で、アジアのなかで日本が植民地にならず、欧米と肩を並べるようになったという、いわば「栄光」の側面もある。それを落としたままでは、気持ちの問題として受け入れにくいというだけでなく、歴史観としても問題があると感じる。

 だから、「自虐」と「栄光」は一体なのだという観点で、何か書きたいなと思っていたわけだ。それを、とりあえず、安倍談話が出た直後、弊社の「さよなら安倍政権」シリーズにくわえたい。その後、より本格的なものを書きたい。どこか出してくれませんか?