2015年7月14日

 明日の採決に向けて、政府・与党が邁進しているようだ。この問題は、「終わりかた」「終わらせかた」だ大事だと思うし、ちゃんとした闘いを最後までやることが次につながる「終わりかた」を生みだすと確信するので、引き続きがんばらねばならない。

 それにしても、110時間も審議したというけど、政府の答弁にはまったく緊張感がなかった。それがこの数カ月を通じて一番印象的だった。答弁内容がくるくる変わるし、変わってもとくに問題だという自覚もなさそうだし、論評に値しないものが多かった。

 たとえば、先週末の安倍さんの答弁。「存立危機事態」をどの時点で判断するのかとの問いに、「米艦が攻撃される明白な危機」のときというものだった。その前は、「攻撃に着手」したときという答弁だったので、曖昧さが拡大したということで新聞に論評された。

 たしかに、「明白な危機」って、主観的な判断である。そもそも国連憲章が「武力攻撃が発生した場合」に自衛権を認めているのは、「武力攻撃(armed attack)」ってのが、誰もが眼で見えるように明白だからだ。その攻撃に「着手」なら、まだ着手している様子が眼に見えるような気もするが、「攻撃の危機だ」というのでは本当に主観なのだ。

 しかし、それ以前の問題がある。集団的自衛権を発動するには、「武力攻撃が発生した場合」だけでは足りないということだ。1986年に国際司法裁判所が下した判決により、攻撃を受けた国が「攻撃を受けました」と宣言しておくこと、攻撃を受けた国から援助の要請があること、この二つが不可欠だとされたのだ。

 これは、過去の集団的自衛権の発動事例をみると、別に武力攻撃も発生していないし(だから「攻撃を受けました」という国が存在しないし)、援助の要請もないのに、アメリカやソ連が他国に対して軍事力を行使したというものだったことをふまえた判決である。昨年、閣議決定の以前は、どの新聞もこのことを論評していたのだが、いまではまったく忘れ去られている。

 いちばん大事なことは、「着手」にせよ、「危機」の場合はもちろん、その段階ではアメリカは武力攻撃を受けていないことだ。だから、「攻撃を受けました」という宣言ができないのだ。「攻撃を受けそうだから助けてくれ」ということでは、日本は集団的自衛権を発動できないのだ。

 そんなことがあっても、政治の場では何も問題にならない。外務官僚は分かっているのだろうが、どんなにひどい答弁でも、国会の多数派をにぎっているから、可決するのに困ることはないという状態が、このひどい答弁を生みだしている。

 もっと真面目に国防を論じるということを、選択肢として提起しないとダメだよね。