2015年7月10日

 「歴史認識をめぐる40章」というサブタイトルだけど、20章まで書き終えた。その19章を公開。

第19章
「後世の歴史家が判断する」のも一理あるように思えます。時々の政治が侵略かどうかを判断していいのですか。

 歴史上のできごとをどう評価するかは、たしかに難しい問題です。たとえば、史料の発掘で歴史が塗り替えられることがあります。時間が経って人々の価値観が変わったことにより、過去の問題への見方が変わることもあります。奴隷制をどう評価するかという問題などは、その最たるものでしょう。

 そういう現実を捉え、「現在の価値観で過去を断罪するな」といわれることがあります。「その当時の価値観でどうだったかが大事だ」という主張です。

 歴史を見るうえで、そういう考え方が大事な要素だということは否定できません。侵略にせよ、植民地支配にせよ、その当時の国際的なルール、価値観がどうだったかというのは、日本の行為を評価する基準のひとつになるでしょう。

 しかし同時に、歴史を評価するうえで、現在の価値観から自由になれないのも事実です。その当時の価値観に身を置こうとすること自体が、当時と現在で価値観が異なっていることを自覚しているからできることであり、何らかの価値判断をすることなのです。

 たとえば、昔は「奴隷制は犯罪ではない」という価値観がありました。しかし、いくら過去のことを書くとはいえ、奴隷制を肯定するような歴史の見方を提示すれば、歴史家としても失格だということになるでしょう。どんなにことがおこなわれたのか、なぜ当時の人々はそれを肯定するに至ったのかなどを究明するようなことは、奴隷制を否定するという現在の価値観に立ってこそ、深みのあるものになるのです。

 しかも大事なことは、戦争行為をどう評価するかというのは、歴史の評価に属する問題ではなく、リアルタイムに問われる政治の課題だということです。世の中では目の前で戦争が起きています。国家は、その戦争を肯定して支援するのか、否定して経済関係を断ったりするのか、あるは中立を保つのかなどの態度を決めなければなりません。

 さらにいえば、国連安保理は、戦争があったとき、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定」(憲章第三九条)するところです。日本は常任理事国入りの希望をかねがね表明していますが、もしなれたとして、侵略かどうかを決定する会合があった場合、それに出席する日本政府代表に対して、安倍首相は「後世の歴史家が判断するべきことだと発言せよ」という指示でも出すのでしょうか。

 「後世の歴史家が……」といってきた自民党の歴代首相も、実際には、現実の政治の場面において、時々の戦争の評価をしてきました。戦後のアメリカは、何十回となく侵略戦争をしてきましたが、「第二次大戦後、我が国が国連に加盟いたしまして以来、我が国が、米国による武力行使に対し、国際法上違法な武力行使であるとして反対の意を表明したことはございません」(九七年一〇月七日、衆議院予算委員会)と橋本龍太郎首相がのべたように、侵略を違法ではないと判断してきたのです。

 結局、「後世の歴史家が……」という歴代自民党首相の発言は、歴史学的な観点からのものではないのです。侵略を容認するという立場があり、それを公然と表明できないので、歴史学の問題であるかのように逃げているだけです。

<歴史をどう評価するかは難しい問題ですが、ある戦争が侵略かどうかの判断はリアルタイムで政治が問われる問題であって、歴史学をもちだすのは責任を回避するものです。>