2016年8月1日

 都知事選挙の結果を見ても、民進党岡田代表の進退と予想される代表戦の行方を考えても、そう思うんです。ドイツ文学運動で歴史的に使われてきた意味としてではなく、日本語の文字通りの意味で、風と波が吹き荒れる時代を迎えるのではないかということです。

 率直に言って、この間の野党共闘は「出来すぎ」だったと思います。だって、つい1年ちょっと前までは、お互いが相手を「敵」認定していたようなものです。政策も一致せず、人として信頼できる関係を築いてきたわけでもありませんでした。

 そこを新安保法制反対の空前の運動が乗り越えたわけです。熱気の中で、不一致点よりも一致点が大事に思えて、異論をおさえて進んできました。

 だけど、異論がなくなったわけではない。民進党のなかの代表戦を前にした保守派結束の動きもそうでしょうし、都知事選挙における宇都宮さんの離反も、起こるべくして起こったものでしょう。

 参議院選挙の中で安全保障をめぐる「野合」が問題となり、共産党が鍛えられる局面がありました。これだって、政権がかかる衆議院選挙に向かうなかでは、この程度では収まりません。共産党が細野さんや前原さん、長島さんとだって腹を割って話し合い、どこまで政策的な一致が得られるのか。そこを視野に入れないでは、これ以上の野党共闘は無理でしょう。安全保障で岡田さんや枝野さんとなら一致できるが、細野さんたちとは無理というようなことはない。岡田さんと細野さんの政策に、それほどの違いはないのですから。

 同時に、そうなっていけばいくほど、宇都宮さん的な離反がより大規模に生まれてきます。野党共闘が大事だから、意見を脇に置いて大同団結せよと言っても、それだけではついて行けない。市民的な理想と政治を動かすための現実と、そこをどう一体的なものとして提示できるのか。そこが大事になってきます。

 そういうことをこれまであまり考えないでこれたわけです。しかし、政治を本当に変えようとすれば、分裂覚悟で真剣な議論を進めていくしかありません。

 この1年間で、せっかく意見の異なる方々と議論するという実績はつくられたわけです。それだって、全国の市区町村とか、職場とかを具体的にみれば、1年前と変わらないところも多いでしょう。

 これからは、政権構想で一致できるかは大きな意見の違いはあるだろうけれど、話し合える相手だとはみなせるようになったという実績を大切にして、人間と人間の関係を豊かなものにして、政策共闘をどこまで広げられるのかという問題意識で、日々努力すべきだと思います。その先にしか野党共闘の未来はないでしょう。