2016年9月2日

 一時期、保守との共闘という言葉が、よく使われていましたよね。まあ、野党と共闘する条件はないが、幅広い共闘をめざしているのだという、弁解めいた響きもありましたけれど。

 でも、私は、保守との共闘って、いまでもいちばん大事なことだと思っています。とくに日本では大事だと。

 戦後の保守と革新を分けるものはいろいろあったと思いますが、客観的に見れば、やはりアメリカをはじめとする西側か、ソ連をはじめとする東側かという対立構図が反映していたことは否めません。

 革新の側でも、ソ連との関係はいろいろでした。ソ連べったりの勢力もいれば(社会党のそれなりの部分)、ソ連のある問題点を鋭く指摘はするが、ソ連は程度は低くても社会主義であり、理論的には優れた社会主義社会がつくれるのだと考える勢力(共産党など)もありました。

 だけど、目の前の実態を素直に見れば、ソ連が優れた社会でないことは余りにも明らかだったので、ふつうの人はアメリカかソ連かの選択を迫られれば、アメリカということになったと思います。そして保守勢力にカウントされていった。

 革新の側には、ソ連がいい社会だと見えるような人と、そうは見えないけれど、将来は社会主義だろ理論的な確信を持てる人がついていった(だからなかなか仲良くなれない)。もちろん、それは当初の話で、時間が経つにつれて、ソ連をどう評価するかではなく、日本の革新勢力の姿を見て判断するということになっていったとは思います。

 ヨーロッパは違っていて、ソ連型の共産主義って、社会民主主義と訣別して誕生したわけで、どの国にもソ連と対決する社会民主主義勢力が存在していました。だから、ソ連が嫌いな人にとって、保守勢力を選ぶだけでなく、社会民主主義という選択肢も存在していたわけです。

 だから、ヨーロッパでは社会民主主義に行くような人が、日本では保守勢力に属するようになってしまったんですよ。保守との共闘というのは、理論的にも実態的にも、大事なことなんです。

 野党共闘を論じる際、保守勢力が邪魔になっているとして、純化路線をめざすような主張がありますが、これは論外です。保守勢力を糾合する野党共闘だけが、将来性に充ち満ちています。

 保守勢力のなかで協力できる人たちとできない人たちをどう見分けていくのか。それが大切なのだと思います。でもそれって、保守勢力との付き合いのなかで分かっていくものであって、外から論じているだけでは無理でしょうね。