2016年9月20日

 いま話題沸騰の文春新書『国のために死ねるか』。サブタイトルに「自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動」とあるが、著者の伊藤祐靖氏は、自衛隊初の特殊部隊とされる海自の「特別警備隊」創設の中心にあった人だ。2等海佐で退官している。

 このブログで書評を書いてほしいと献本され(著者からではないが)、だいぶ前に読み終わっていた。放置していたわけでなく、運命のいたずらに啞然として時を過ごしていたというところだろうか。

 著者が特殊部隊創設にかかわったのは、99年に発生した北朝鮮の能登半島沖不審船事件が発端である。このとき、著者はイージス艦「みょうこう」の航海長をしており、不審船発見とともに出動し、不審船を発見する。それを海上保安庁に通報し、やってきて威嚇射撃をする巡視船とともに逃走する不審船を追いかけ、捕捉しようとするわけである。

 しかし、燃料がなくなった巡視船は戻ってしまい、「みょうこう」に対して海上警備行動が発令される。その結果、乗組員は、威嚇射撃をして不審船を停船させ、立ち入り検査をすることを求められる。そんな任務を遂行するための訓練もしていないし、それにふさわしい装備があるわけでもないのに、立ち入らなければならない。死を覚悟して準備することになる。

 この本のスゴイところは、その現場で命令する立場にあるもの、される立場にあるものの気持ちの動きがリアルに描かれることにある。そして、その教訓をふまえ、自衛隊がどういう思想で特殊部隊を創設したのかが描かれるのも、大事な点である。

 ただ、事件の結末は言うまでもないだろう。誰も立ち入ることはなかったし、死ぬこともなかった。理由は、不審船が威嚇射撃のなかを逃げおおせたからだ。

 なぜこれを私が運命のいたずらと表現するのか。それは、これが私にとっても、覚悟を決める事件だったからだ。

 当時、私は、共産党の政策委員会で安全保障を担当していた。その頃の共産党の安全保障政策は、いわば「非武装中立」となっていた(そういう言葉を使って表現していたのは上田副委員長だけだったが)。日本の平和と安全が脅かされた場合、軍事力ではなく、海上保安庁を含む警察力で対応するということだった。

 しかし、能登の不審船事件が明らかにしたのは、海保どころか海自さえ不審船を捕捉できないという現実だった。不審船は、過去には日本人拉致に関わり、当時も麻薬の密輸入などの犯罪に使われていた。それなのに、その不審船を捕捉できない能力、法律を放置するようでは、やはり日本国民の安全に責任を負える政党とは言えないと感じたわけである。

 詳しい経過は省くが、共産党は翌年の22回大会で、いわゆる自衛隊活用論を打ち出す。そしてその翌年、海上保安庁の巡視船が威嚇射撃だけでなく船体射撃ができるような法改正が提案されたのに対し、賛成の態度を表明することになる(海保は当時の運輸省に属していたが、共産党が賛成したのに政府がびっくりして、扇千景大臣が議員のところに挨拶にやってきた)。

 威嚇射撃というのは、船体そのものには当てないで、近くの空や海に向けて撃つわけだ。北朝鮮の不審船はそれを知っていて、どうせ当たらないのだということで、ゆうゆうと逃げ切ることになる。

 船体射撃は、まさに船体を破壊するわけだから、その結果、船が沈んで乗員が死亡するかもしれない。それでも、それが必要だという判断だった。

 これは、当時の共産党の考え方のなかでは、かなりぶっ飛んだものだったと思う。強い反対があって難航した。逃げおおせたほうが被害がお互いに少ないのだから、法案には反対すべきだという根強い主張もあった。というか、人数としてはその考え方のほうが多かったのだが、それを押し切って賛成したわけだ。法律がつくられてからも、「共産党が軍事力の使用に賛成するなんて裏切りだ」という意見が多数寄せられた。

 しかし、相手が不法行為をしているのに(もしかしたら拉致された日本人が不審船に乗っているかもしれない)、それを見過ごすことは、市民運動にはできても、政治の立場ではできないし、政治に責任を負う政党にもできないのだ。その決断だった。

 まあ、その現場に立たされた著者と私を比べるのはおこがましいのだが、気持ち的に通じるものを感じる。著者はその後、特殊部隊の仕事から外され、結果として自衛隊を退職するに至るのだが、そこまで含めて気持ちがかぶさってきた。

 ということで、書評が遅くなってすみません。著者の伊藤さんは、12月24日に開かれる「自衛隊を活かす会」の「自衛隊に尖閣は守れるか」をテーマにしたシンポジウムで報告をしてもらいます。ここには陸将、空将も参加します。乞うご期待。