2017年11月5日

 安全保障問題は難しい。だって、党大会の報告って、きれいごとのようなものだ。本音は話さない。例えば、

 「中国は防御的な国防政策を遂行する。」
 「中国の発展はいかなる国にとっても脅威にならない。」
 「いかなる国も単独で人類の直面しているさまざまな試練に対応できない」
 「「対立のかわりに対話を行い、同盟の変わりにパートナーを組む」という国際交流の新しい道を歩むべきである。」

 これらを並べると、中国は全然脅威じゃないということになる。日本は自衛隊がなくてもやっていけるよと言う人さえ出てくるかもしれない。

 ただ、報告では軍事力を誇る表現が尋常ではないから、それだけで「コワい」と感じる人はいるかもしれない。例えば、

 「「党の指揮に従い、戦闘に勝利でき、優れた気風をもつ」人民軍隊を建設することは、「2つの百周年」の奮闘目標を達成し、中華民族の偉大な復興を実現する上での戦略的支えである」
 「軍隊は戦いに備えるものであるから、すべての活動はあくまでも戦闘力を基準とし、「戦闘ができ、戦闘に勝利できる」ようにすることに焦点を絞らなければならない。」
 「新しいタイプの作戦力・保障力を発展させ、実践化軍事訓練をくり広げ,……「効果的に「態勢をつくり、危機をコントロールし、戦争を抑止し、戦争に勝つ」ことができるようにする。」

 まあ、それでも、普通の大国並みである。第一列島線がどうかとか、西太平洋でのアメリカとの覇権争いがどうかとか、そういう大会報告に出てこないことを論評するのはよしておこう。

 とはいえ、報告を読んでいると、中国を多くの人が脅威だと感じる「源泉」のようなものは感じる。それは何かというと、戦争というものへの向き合い方が、日本国民の常識とはかけ離れていることである。

 日本では、一般に、戦争は忌避すべきものだと考えられている。少なくとも賞賛すべきものではない。しかし中国では、戦争というものが、否定的な文脈で語られることが少ないように思う。一般人のなかでは戦争の悲惨な記憶もあると思うが、習近平報告には、そのような見地はない。

 それは、中国における戦争とは、日本との戦争における中国共産党の役割を賞賛するいわゆる「愛国教育」と結びついているからだ。報告にはこんな箇所もある。

 「アヘン戦争以後、中国は内憂外患の暗黒状態に陥り、中国人民は戦乱が頻発し、山河が荒れ果て、人々が生活の道を失う大きな苦難をなめ尽くした。民族復興のため、数知れない愛国の志士が不撰不屈の精神で先人のしかばねをのり越えて突き進み、称賛と感動に値する戦いを進め、いろいろな試みを重ねた」

 戦争は「称賛と感動」の対象なのである。もちろんこれは、日本との戦争の文脈で語られたものだ。私は、中国が愛国教育をやること自体、別におかしいことではないと思う。日本から侵略され、それに抗したのは当然だし、戦うこと抜きに平和を実現できなかったのだから、それを「誇り」とする感情が生まれるのは当然のことだろう。

 ただ、日本との戦争を誇る余り、戦争一般が「称賛と感動」に値するもののように見えてきていないのだろうか。少なくとも、戦争そのものがいけないものだという指摘はないし、そういう自覚が見当たらないように思える。

 国際的な基準で見ると、戦争は、国連憲章のように捉えるのが一般的だ。「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害」という認識である。戦争が何千万という犠牲者を二度にわたって生み出したわけだから、それが当然なのだ。そして、国連憲章で明示されているように、戦争は基本的には「禁止」の対象なのだ。中国の抗日戦争のように「自衛」戦争は認められても、それはやむを得ざる戦争であって、「称賛と感動」の対象ではない。

 中国が「称賛と感動」の対象として戦争を捉えている限り、尖閣をはじめ戦争につながる行為に熱狂する国民をつくりだすのだと思う。それを感じてしまうから、日本国民の脅威感が生まれると思うのだが、どうだろうか。

 ただ、その愛国教育にふれているのも、習近平報告では一箇所である。かつてあれほど強調されたのにね。そして、それに変わって頻発しているのが、昨日も書いた社会主義賛美なのだ。「一党独裁と暴力装置に彩られた社会主義」の完成をめざすというものだ。

 そして悲しいのは、習近平のそんな報告を見て、日本でも世界でも多くの人々は「それこそが社会主義らしい」と捉えるだろうということだ。それ以上に悲しいのは、コミュニストであっても、「それでも、腐っても社会主義だ」と捉える人がいることだ。社会主義とは正反対のものだと捉えないといけないのにね。いやはや、ホントに悲しいことである。(了)

2017年11月4日

 今回の報告を読んでみてびっくりするのは、驚くほど「社会主義」という言葉が多用されていることだ。それも「中国の特色のある社会主義」である。

 それほど、この間の「前進」に自信を持っていることのあらわれかもしれない。けれども、じゃあその「社会主義」とはどんなものなのか、そこが必ずしも明らかではないように思える。

 いや、中国共産党的には、明確なのだろう。たとえば、「社会主義現代化強国」を2段階で建設するというが、それは以下のようなものだ。

 2020年から35年までは、すでに実現した「小康社会」を土台に、「社会主義現代化」を成し遂げる。「人民の生活がより豊かになり」、「発展の格差や住民の生活水準の格差」が「著しく縮小する」。すなわち、豊かにはなるが、問題は解決しきらない段階というイメージだ。

 他方、2035年から49年まで努力すると、「社会主義現代化強国」になる。各種の「文明が全面的に向上し」、「トップレベルの総合国力と国際的影響力を有する国となり」、「全人民の共同富裕が基本的に実現し」、「中華民族はますます溌剌として世界の諸民族の中にそびえ立つ」そうだ(そんなに「溌剌」としてほしくないけどね)。

 さらに、「新時代の中国の特色のある社会主義」は8つで構成されるそうだだが、5つまでは経済分野で、それ以外、6つめは「人民軍隊」が「世界一流の軍隊」になるというもの。7つめは外交で、最後に8つめが「中国の特色ある社会主義制度の最大の優位性は中国共産党の指導」であるというものだ。

 前者の2段階規定は、マルクス以来の共産主義の2段階論を援用したものだろう。「労働に応じて配分される」段階と「必要に応じて配分される」段階だ。

 しかし、社会主義というものをこうして捉えると、かなりおかしいことにならないか。世界的に社会主義の運動で理解されていたものとはかなり異なる。

 だって、私にとって共産主義が発達した時点での最大の特徴は、「国家の死滅」である。「国家が次第に眠り込む」というものだ。社会主義の低い段階ではまだ国家権力が配分を取り仕切らないといけない程度の生産力にとどまるが、やがてはそれも不要になり、まさにみんなで支え合う共同社会ができてくるイメージである(別の議論になるけれど、「ともに支え合う社会」は立憲民主党の公約で、前原さんのall for allだって同じ意味で、3.11直後の公明党も「支え合う社会」と言っていた。これってCommune(共同)ということで、それが共産党と訳されたんだよね。共産主義と訳すと毛嫌いされるけれど、そのめざすところは多くの政党にとって、共通のものになるのかもしれない)。

 だから、共産主義社会では、いっさいの暴力がこの世から消えていく。暴力装置が不要になる。ということは軍隊も不要になる。権力が不要になるということは、共産党だって不要になるということだ。

 ところが中国式の社会主義、共産主義論というのは、発展すればするほど、軍隊は強大化して、一党独裁は強化されるのだ。つまり、これまで理解されてきた社会主義と違うどころではなく、その反対物になってしまっている。多少でもマルクス、エンゲルスをかじっていたら、恥ずかしくてこんな報告できないでしょ。ジョークとしか思えない。そんな社会主義像を描いて、人々が付いてくるのか。

 こうして、中国共産党が「社会主義」を強調することで、しかも、世界の社会主義運動のなかで通用してきたものとはまったく異なる「社会主義」を強調することで、社会主義はこれまでの社会主義のイメージからかけ離れた別のものとして理解されていくわけである。

 そんな中国流社会主義像を批判しぬくことなしに、他の国で社会主義を掲げる勢力が維持されることはない。そんなことを思わせる習近平報告であった。次回は最後に安全保障問題へ。(続)

2017年11月3日

 突然ですが。

 泥さんが亡くなって、本日でちょうど半年です。こう書き始めると、「まだ半年」か「もう半年」か、気持ちが揺れているのを自覚します。

 このままでは、「思い出」みたいなものを書いてしまいそうで、止めます。要件を書きます。

 亡くなった直後に、泥さんのホームページを開設することを宣言しました。多くの方々から協力の申し出があり、その作業が進んで来ました。本当にありがたいことで、泥さんの思想と行動を遺したいと考える人がこんなにいるんだと、とってもうれしかったです。

 ところが、この作業、そう簡単ではありません。まず、泥さんの遺したものの半端でない多さです。ミクシィ、フェイスブック、その他、全部あわせると何百万字にもなるでしょう。それを、ひとつひとつ、コピペしていくわけです。しかも、それを公開できるよう整理していく作業もあります。みなさん、本業の仕事をしながらですから、簡単でないことは理解していただけると思います。

 さらに、この作業をしていると、泥さんの書いたものを、ついつい読んでしまうんですね。ただコピペするだけなら早く終わることも、読み始めると時間がかかります。でも、惹きつけられちゃうから、こればかりは仕方がありません。

 で、弁解ばかりしていますが、全部の作業が終わってから公開するということになると、いつになるか分からない状態です。それで、みなさんと相談して、とりあえずできているものを、12月8日には公開しようとしております。

 と思っていたところ、没後半年を迎えようとする昨夜、突然、いまの到達で、期限も限定されるが、みなさんに見てもらおうということになりました。それでご意見を寄せていただいて、正式の公開日には、さらに充実したものにするということです。

 ということで、泥さんが亡くなった本日朝5時32分から、11月8日まで6日間限定で、以下のところで公開します。そこにご意見を寄せていただく方法も書かれていますので、是非、ご意見をお寄せください。その方法にアクセスできな方は、私宛にメールをください。

 「Doro Project #Archive」

 泥さんは生きています。生きて、さあ生きがいのある時代だぞ、一緒に闘おうと、私たちを励ましています。

2017年11月2日

 報告の中では、中国の政治社会制度を絶賛する言葉が無数に出てくる。「わが国の実状に合致した先進的な社会制度」なんてね。

 どの国であれ、実状に合致していることは大事である。ただ、第六章の「社会主義民主政治を発展させる」という箇所で以下のように書かれているとおり、中国の民主主義は西側のそれとは違うんだということが、言いたいことのキモであろう。

 「世界に全く同じ政治制度モデルは存在しないのだから、政治制度は、特定の社会・政治条件や歴史・文化伝統から切り離して抽象的に論じられるべきではない」「外国の政治制度モデルを機械的に模倣したりするべきではない」

 もちろん、「外国の模倣」はダメでしょう。一般論としては理解できる。しかし、報告が言いたいのは、共産党の一党独裁だけは変えられないということだ。報告が述べるように、「中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴は中国共産党の指導」なのだから。

 まあ、ここを批判しても、仕方がない。というかむなしい。それが中国そのものなのだから、かみあった批判にならない。

 多少でも報告にかみあったことが言えるとすると、他の国と同じでないことは強調するが、その根拠を説明する必要を感じていないと思われることの問題である。開き直っているんだねということだ。

 先ほど「社会主義民主政治」と引用したけれど、昔の社会主義運動には、社会主義における民主主義と資本主義における民主主義を比べ、前者が優れているのだという「理屈」づけがあった。中国にあったかどうかは知らないが、世界の社会主義運動においては存在した。

 例えば、言論の自由。資本主義においてはカネのあるものは言論にカネをいくらでも投じられて自由を満喫できるが、カネがないとそれができない。だから資本主義においては、形式的には平等であっても、実質面で見ると言論の自由は貧しいものには保障されていないとか。そんな根拠付をして、ある人たちは納得していた。というか、そうでもしないと、自分のめざしている社会主義に確信が持てなかったのである。

 まあ、ところが、実際に社会主義を名乗った国は、国家がカネを出す相手と出さない相手に選別することで、結局は国家の言うことを聞くところにだけカネを出し、言うことを聞かない人の言論の自由を奪ったわけだけどね。そしてそんなみっともない姿を通じて、言論の自由で西洋型と社会主義型を区別する論理は消え去っていったわけだ。それにしても、誰が見ても社会主義のほうが劣っているのに、それを誇るのだから、何かしら「論拠」のようなものは必要とされたのだ。

 しかし、習近平報告のどこを読んでも、そういうものは見当たらない。中国の政治社会制度に欠点はないのだ、最高のものだと、本当に心から誇っているようだ。

 中国のなかでも、つい数年前までは、なんとか民主主義を発展させなければという問題意識があることは感じられた。だから例えばうちの出版社でも、8年ほど前、『中国は民主主義に向かう』という本を出したりもした。

 この本、サブタイトルに「共産党幹部学者の提言」とあるように、中国共産党中央の編訳局長という要職にある人に書いてもらったものだ。一党独裁に切り込むようなものではなかったけれど、どうやって少しずつでも民主主義を拡大するのか、地方で萌芽的に生まれていた複数立候補などを広げていくのかという問題意識があった。中国共産党のなかにも、中国の現状を無条件で賛美できないという考え方があったのだ。ところが、そういう問題意識が潰えさったのが、いまの中国であり、習近平報告である。

 その「共産党幹部学者」の兪(ゆ)可平氏は、日本共産党との理論交流にも中国側代表として出ていたような人で(日本側代表は不破哲三氏)、本を出した時、不破氏への手紙なども寄こしてきた。だから、その手紙を不破氏にお渡しし、本のことを「赤旗」で紹介してもらおうと思っていた。

 しかし、どこにも載せてもらえなかった。広告掲載さえ拒否された。というか、不破氏自身、そのメッセージを受け取ろうともしなかった。推測になるけれど、中国で少しでも民主主義を主張するような声は、結局は弾圧されることを(だからそんな本の広告を載せたら「内政干渉」になりかねないことを)、不破氏は予測していたのかもしれないね。当時、「中国の未来が悲観的なものになる確率は8割」とおっしゃってたそうだから、よく先が見えていたんだね。言論の範囲内のことは「干渉」とは言わないと思うけれど。

 明日から休みで、通常ならブログも休みますが、連載中でもあるし、休みなしで続けます。ホントの理由は日曜日の記事で書きます。(続)

2017年11月1日

 11月になりました。習近平報告は1回お休みして、お誘いを。

 昨年、『第九条』という映画ができたんですね。9条をめぐってはこの間、いくつかの映画が制作されましたが、これは観ていませんでした。

 このチラシを見る限り、いろいろな立場の人が議論を交わすようなものになるみたいです。国民投票の時代には大事なことだと思います。

【チラシ修正版】第九条討論会

 その映画を鑑賞して、続いて実際に議論しましょうという企画です。11月12日(日)で、午後4時から映画、5時半から討論。討論のタイトルは「9条問題の本質と抜本的な解決を論じあう」ですって。場所は阪急十三駅近くのシアターセブン。

 討論に参加するのは、この映画監督の宮本正樹さん、この討論会そのものを企画したジャーナリストの今井一さん、9条の会・おおさか事務局長で関西大学教授(憲法学)の吉田栄司さん、そして私の4人です。これはこれは、ホントに「議論」になりそうですね。

 今井さんは、2年前に上梓された『「解釈改憲=大人の知恵」という欺瞞―九条国民投票で立憲主義をとりもどそう』で、私がかもがわ出版に入社して最初につくった『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る』をとりあげ、私が書いたその本の「まえがき」を徹底的に批判された方です。吉田さんは、その今井さんによると、「9条護持なら戦力としての自衛隊は武装解除すべき」という立場の方だそうです。それに「自衛隊を活かす会」事務局長の私ですからね。

 どうです。参加したくなったでしょ。どういう議論になるのかなあ。

 私は、改憲派の人と議論するときは、どこか共感し合えるところがないか、必死に探し求めるんです。だって、共感度ゼロだと、ケンカであって、議論にならない。相手がそう考えるに至った道筋とか共感できる部分があると、こちらの見解も聞いてもらえて、理解し合うことも可能になるんです。

 でも、護憲派との議論になると、仲間の気安さで、それほど気を遣わなかった面もあります。国民投票の時代は、でも、それではだめですよね。護憲派の仲間割れを見せてしまったら(違いを尊重し合い、誠実に議論し合っている様子は見せてもいいけど)、護憲派の主張が国民に浸透することもないでしょう。

 ということで、大事な議論になると思います。どうぞ、お越し下さい。前日も大阪で安全保障論の講義のようなものがあって、私にとってはタイトな週末になります。