2018年11月21日

 これまでの記事を小括しておく。結論は、自衛隊を解消するという課題にリアリティがなくなっているもとで、自衛隊違憲論の護憲派には新しいアプローチが求められているということだ。

 自衛隊をめぐる矛盾はいろいろあって、どれも根深い。ここで書いてきた戦場での医療のお粗末さ、国際人道法の法体系の欠落以外で、私が一番大きいと思うのは、防衛政策の欠落である。アメリカの抑止力に頼るということが根幹になっているので、自前の防衛政策というものを持てないでいる(これに関して書き始めると終わらないので、指摘だけで終わる)。

 国会で社会党をはじめ護憲派が三分の一を占め、「政権をとったら自衛隊の解消に取り組む」と言えた時代なら、その矛盾に向き合わないでも、「近々解散させるのだから、それまでの我慢」で通用した。軍事力を全否定しては政権をとれないのだから、空想ではあっただろうけれど、堂々としていられた。共産党の場合は、社会党との連合政権で自衛隊をなくすから矛盾はなくなるし、共産党主導の政権は憲法を改正して軍隊に憲法上の根拠を持たせるので、やはり矛盾はないと言えた。

 しかし、現在、自衛隊をなくせるなんて国民の99%は思っていない。100年、200年先にもそんな事態が来るとは思っていない。そういう状況下で、自衛隊をなくすという信念を持っているのは構わないけれど、自衛隊にかかわる矛盾に向き合わないということは、矛盾を100年、200年、300年放置し続けるということを意味していて、国民にとっては無責任きわまりない態度に見えてしまう。

 自衛隊をどう使うのかという防衛政策を持たないなら、大事な国防を任せられないと思われる。戦場での自衛隊の医療向上を否定的に見るなら、自衛官の命を軽んじている勢力だとみなされる。自衛隊が民間人を殺傷した場合の法体系に無関心でいるなら、人道をわきまえない連中だということになる。

 その結果、「護憲」というのはそういう連中の考え方だと位置づけられ、「それなら改憲」という流れが生まれる。「大義に殉じる」と言えるなら格好もつくだろうが、護憲というのが人道や命に反すると思われるわけだ。

 「人道」や「命」は護憲派こそが大切にしなければならないのに、護憲派がその対極にあるとみなされてしまうのだから、とうてい「大義に殉じる」というようなものではない。しかも、護憲派は自分が「人道」や「命」の側に立っていると自信を持っているので、そういう構図になっていることを自覚できない。

 「人道」や「命」の対立物を生んでしまう9条って、それこそ矛盾だ。それって必然的なものなのか。解決できるものなのか。明日からはその点に入っていく。(続)