2014年11月28日

 午後6時30分より石川康宏さんの講演会です。チラシにあるように京都社会福祉会館。最寄り駅は地下鉄二条城駅で、北に向かって徒歩5分くらいでしょうか。

石川さん講演会

 12月8日、話題の『21世紀の資本論』(ピケティ著)がみすず書房から刊行されます(正式なタイトルは『21世紀の資本』だそうですが)。こんな本に関心のある人の大半は、14日の投票日まで忙しくて手にしないかもしれませんが、いずれにせよ、『資本論』とかマルクスが書店をそのまわりで話題になる日々が訪れると思います。

 その議論を盛り上げていきたいですよね。そのためにも、講演会に参加して、マルクスが現代に蘇ったら何を言うだろうかとか、どんな『資本論』を書いただろうかなんて、妄想に耽っていただければと思います。私が司会をします。

 この講演会、9月に刊行された内田樹さんとの共著『若者よ、マルクスを読もうⅡ』の出版を記念して行われるものです。石川さんが本日講演して、内田さんの講演会は来年1月18日(日)です。総選挙が終わり、新しい局面で戦後70年目を迎えたところで、「日本人はいつまで「戦後○○年」と言い続けるのか」と題して、戦後政治の展望を語っていただきます。場所は本日と同じところ。

 『若者よ、マルクスを読もう』は、次は第3巻目です。いつになるか分かりませんが、エンゲルスの著作を取り上げることになります。そして第4巻目は『資本論』その他。

 この過程で、「内田さん、石川さんと訪ねるマルクスの旅 ドイツからイギリスへ」なんてのも考えてますので、乞うご期待です。要するに、ちゃんと3巻目、4巻目を書いてよねというお願いの旅なんですけどね。

2014年11月27日

 何回か書きましたが、いま、「「生業を返せ!地域を返せ!」福島原発訴訟」に関わっています。昨年、『あなたの福島原発訴訟』という本もつくりました。

 この訴訟は国と東電に原発事故を起こした責任を認めさせることが主眼で、4000人近い方が原告団に参加しています。先の本は、「あなた」に訴訟に加わってほしいという気持ちを込めてつくったものです。

 来年初頭、この訴訟をもっと国民のみなさんのなかにアピールする本をつくります。10月はじめ、訴訟の原告団・弁護団が主催し、福島でシンポジウムを開いたのですが、その内容を基本にしたものです。執筆者は、井上淳一さん(脚本家・映画監督)、蓮池透さん(元東電原子燃料サイクル部部長)、堀潤さん(元NHKキャスター)、中島孝さん(原告団長)、そして恥ずかしながら私も加わっています。いろいろな角度から国と東電の責任を問い、裁判の重要性を語る本です。

 それで、本のタイトルなんですが、サブタイトルは前著のこともあるので、「私の福島原発訴訟」のようなものにしたいのですが、問題はメインタイトルです。読者のみなさん、とりわけ福島弁をよく知る方のお知恵を借りたいんです。

 「国と東電は責任を認めなさい」という内容にしたいんですが、この標準語ではインパクトが弱いと思っていて、福島弁にしたいんです。だけどね……

 浜通りに住んでいる方に聞いたら、まず出てきたのが、「ずるかし!国と東でん!」でした。ずるい行いをするのを、ずるかし、というそうです。

 「ほでなす!」というのもありました。「法でなし」が語源かもしれないということで、道理のない相手を一喝するときんい発する言葉なんだとか。

 だけど、中通りに住んでいる方に聞いたら、そういう言い方は聞いたことがないとか。そうですよね。浜通りは歴史がちがうからね。

 それで、中通りの方が提案してくれたのは、「国と東電にびしゃくれる」でした。厳しい言い方で叱りつけるときに出てくる言葉だそうです。「まやえ!国、東電!」というのもありました。

 さて、どうでしょうか。でも、福島以外の方にもある程度は伝わる言葉が求められるし、悩んでおります。「国」「東電」「責任」を含んだ言い方って、ありませんか? メールその他でご提案いただければ幸いです。

2014年11月26日

 なかなか難しい局面を迎えているようですね。この問題は、現実の運動において、かかげた目標を実現できないとき、どのような終わり方が求められるかという、すごく大事な点を含んでいると思います。

 いまはあまり見られなくなりましたが、日本でも同じようなことがありました。たとえば、賃上げとか整理解雇反対とかをかかげ、労働組合がストライキに入るようなケースです。

 そういう場合、目標が実現できれば、そこでストライキは終わるわけです。ただし、目標に届かない方が多いわけですよ、実際にはね。相手は何と言っても強いですから。

 ストライキが長引くと、いろいろ否定的な要素も生まれます。一カ月もやれば、組合の闘争基金も底をついてきて、その間の給与はどうするのだということになります。

 その結果、当然のこととして、もう終わりにしようという意見とか、目標を実現できない執行部に対する不満も出てきます。そこを相手が突いてきて、運動を分断させるようになってきます。いまの香港がそういう局面なわけです。

 だから、こういう闘争というのは、終わり方が大切なんですね。目標の実現も大事だけど、闘争に参加している人の間の団結も大事で、運動が広く社会的な支持を得るということも大事で、それら大事なことのバランスを考えながら終わるという、そんな「引き際」の判断が大事なんです。いま引くことが、次の闘いを新たな段階に引き上げるのだという、そんな終わり方を納得することが大事なんです。

 香港の学生はよくがんばったと思います。何と言っても相手は巨大な独裁国家です。香港返還のときは、経済的な利益のためにも香港の制度を尊重するという態度をとったけれど、その後、中国本土が独裁下で経済発展をしたこともあって、独裁に自信を深めているようなところもあります。

 その中で、これだけの闘いを組織したわけです。経験もないのに、よくやったと思います。

 香港の学生は、掲げた目標は実現できていません。しかし、次の闘いにつながる新しい活動家を生みだしたとか、次の闘いも世界の共感を得ることができると確信が持てたとか、いろんな別の成果を生みだしました。そういうことをみんなの共通の思いにして、次のステップに踏みだしてほしいと思います。

2014年11月25日

 ずっと慰安婦問題を考えながら日々を過ごしている。その中でも私の頭を捉えて放さないのは、法的責任と政治的道義的責任の問題である。

 この問題では、韓国や市民運動の側が日本政府に対し、法的責任を果たせと要求してきた。それに対して、日本政府の側は、法的な責任はない、あるいは法的には決着済みであって、政治的道義的責任なら認められるとしてきた。

 こういう経緯があるものだから、法的責任は高い水準のもので、政治的道義的責任は軽いものだと捉えられてきた。実際、日本政府が口にする政治的道義的責任というのは、法的責任を回避するための口実のようなものだったので、本当に軽いのである。

 しかし、本当にそうなのだろうか。あるいは、被害者の側は、法的責任が認められれば、本当に満足するのだろうか。

 法的責任というのは、いうまでもなく法律に反したということである。その結果として罪に服したり、生じさせた被害に対して補償義務が生まれたりする。

 だけど、法的責任というのは、自分が犯した罪を悔い改めることとは別に果たされるものだ。反省しようが反省しまいが、法律に規定に則って罰されるのだ。反省すれば情状が加味されるだろうけど、有罪が無罪になるようなものではない。

 被害者が加害者に求めているのは、「心からの反省」のはずである。法的責任を果たすことと心からの反省は合致するわけではないのに、ただただ法的責任を求める運動というのは、被害者の心を反映しているとはいえないのではないか。

 たとえば、安倍さんがいかにも侮蔑的な表情で、「わかったよ、法的責任を果たしますよ。税金からお金を渡せばいいんでしょ」と言ったとして、被害者の心は少しでも癒やされるだろうか。そんなことはあり得ない。

 そうではなく、河野談話のように、政治的道義的責任であったとしても、心が伝わってくるようなものが望ましいのではないだろうか。渡すお金だって、謝罪を表したいという国民のカンパの方が、そういうものとは無縁に出される税金より、ずっと心を伝えることってあるのではないだろうか。

 カール・ヤスパースは、ナチスドイツの戦争犯罪を扱った『戦争の罪を問う』のなかで、罪を四つに分類している。刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上的な罪である。そして、後ろに行くほどに、要求される倫理上のハードルは高くなるとのべている。

 そのあたりをどう整理するかは、来春に出そうと思っている本の中心命題のひとつだ。さてどうなることか。

2014年11月21日

 いよいよ解散ですね。投票日まで25日しかないから、瞬く間に終わってしまいそうです。それにしても、この間の政治の流れからすると、かなり変わった選挙ですよね。

 自民党が安定多数を誇っていた80年代までは別にして、それ以降の20数年は、「政権交代」ということが問われてきました。実際に、細川政権とか民主党政権とか、自民党政権とは異なる政権が誕生したこともあります。この間、多くの野党は、選挙になると「政権交代」をスローガンにして戦ったわけです。

 ところが今回、「政権交代」を掲げる野党がひとつも存在せず、そういうなかで選挙がやられそうです。これをどう考えたらいいんでしょうか。

 しかもですよ、安倍政権には退陣してほしいという声が、いま街場には充満しているわけです。それなのに、安倍政権に変わって○○政権を、というスローガンを掲げる野党は存在しない。

 この状況をどうとらえ、何を国民に訴えていくのかが、選挙の行方を左右する感じがします。あれこれの政策ではない、まさに政権交代論です。

 いや、私にも全然分からないんですけどね。みなさんは、どうですか。

 うっすらとした記憶ですが、ロシア革命のちょっと前のことです。政治集会で、ツアーに対する不満は充満しているのに、政権を担える政治勢力がいないことが問題になったそうなんです。その時、レーニンが手を挙げて、「ここにいるぞ、ボルシェビキが担うのだ」と宣言したんです。そうしたら、会場には嘲笑が広がったとか。

 まあ、ソ連が崩壊して、あのタイミングで革命をやったのが間違いだったという議論もあります。社会も党ももっと成熟が必要だったという議論もあります。

 だけど、少なくともレーニンは、国民のなかに渦巻く不満の強さというものを自覚していたんですね。きわめて少数の勢力だったけど、政権交代を訴えても支持されると思っていた。他の政治勢力は、まったくそういう自覚がなかったわけです。

 いまの日本の安倍首相に対する不満の強さというのは、その時のロシアほどではないんでしょうか。不満は、一部でかつてなく強いだけであって、国民多数はアベノミクスを支持していて、政権交代を望んでいないんでしょうか。 

 そんなことはないでしょう。まあ、そうだとしても、安倍政権を退陣させ、別の政権に変える道筋は、多くの国民が知りたがっていると思います。それこそが、今回の選挙で問われる最大の争点だと思います。

 今回の選挙はステップであって、何回かの選挙を通じて政権交代を果たしていくのか。自民党の議席が減り、対抗勢力が前進すれば、国民世論が盛り上がって与党に亀裂をもたらし、リベラル保守の政権に交代するのか。その他その他。

 いろいろな野党から、どんな考え方が出てくるのか、楽しみです。みなさんは、どうですか?