2015年6月4日

 いちおうは安全保障や外交問題が専門ということになっていて、本もいくつか書いているのに、20世紀の「戦争と平和」にとって最大の問題であったアウシュビッツを訪れていないことは、ずっと気になっていた。だから、丸一日をかけて見学し、その後、ドイツがそれをどう総括しているかを見てきたことは、意味があったと思う。何か認識がまるで変わるということはないけれど、やはり現場を見てきたということは大事で、今後、折にふれて、私にも何らかの影響を与えることになると思う。

 そこで感じたことの最大のものは、各種の犯罪の性格というものをちゃんとつかんで議論しないと、すれ違いに終わることがあるだろうということだ。それも、この問題に対する国際社会の認識の発展というものをよく捉えていないと、間違いを生みだすことにもつながりかねない。

 たとえば、ドイツが犯した罪の最大のものは、「C級犯罪」である。いわゆる「人道に対する罪」だ。ユダヤ人の抹殺をもくろんで、それを実行に移し、実際に600万人を殺害した罪として問題になっている。

 一方、日本で問題になってきたのは、いわゆる「A級犯罪」である。「平和に対する罪」として、指導者が戦争を計画し、指導したことが問題とされてきたわけである。

 両方とも、第二次大戦の終了に際して、新しくつくられた犯罪概念であるが、二つの犯罪の性格はまったく異なる。ドイツは反省し、日本は反省していないとよく言われるけれども、犯した罪の性格が異なるのに、反省の水準を横並びにして比較するのは、そもそも簡単なことではないだろう。

 「C級犯罪」というのは、実際に大量の人を処刑したということで、何と言えばいいか分からないが、罪が実感しやすし、事実が明確なので反論の余地がない。一方、「A級犯罪」というのは抽象的である。侵略の過程で民間人の殺害行為もあるわけだが、この犯罪で問題になっているのは、あくまで侵略を企てたり、遂行するのに責任を負っているということである。

 国家がそこに住むある集団を組織的に殺害することは、それまで犯罪とされてこなかった分野であるとはいえ、何と言っても人の集団を抹殺するわけだから、その時点でも犯罪として認識しやすい。しかし、戦争を計画し、遂行することを犯罪とするのは、いまでもイラク戦争を計画し、遂行したブッシュさんが犯罪に問われないように、ましてや70年前、どうそれを問うのかは難しい問題であった。

 だから、反省とか責任というのは、それぞれの罪に即したものでなければならない。そうでないと、ドイツと同じように責任を認めろといっても、心に響いてこないような気がする。それがどんなものか、まだ見えてこないけれど。(続)