2015年6月12日

 続きを書くのを忘れた。何を書こうと思ってたかも忘れたけど、たぶん、犯罪を裁くに当たっては、その罪の性格をちゃんと捉え、ふさわしい裁き方をしなければならないということだ。

 ニュルンベルグとか東京裁判で、「人道に対する罪」という新しい犯罪の概念が生みだされた。それは、ナチスによるユダヤ人虐殺を裁くのに、それまでの犯罪概念では不可能だったからだ。ユダヤ人抹殺計画などをもって、それを実行するって、それまで考えられなかったのである。

 ただ、虐殺というだけなら、日本も同じようなことをした。だから、東京裁判でも、BC級の罪が適用された場合もあったわけである。

 しかし、戦後の長い時代をかけて、その罪は区別することになってきた。その結実が国際刑事裁判所規程である。

 ここでは、4つの罪が裁かれるのだが、ユダヤ人虐殺などに見られる罪は、「集団殺害犯罪」とされた。そして、他の殺害と異なる特徴を、「国民的、民族的、人種的又は宗教的な集団の全部又は一部に対し、その集団自体を破壊する意図をもって」殺害等が行われたことだとした。

 一方、この国際刑事裁判所規程では、引き続き「人道に対する犯罪」も裁かれる対象になっている。これは、「集団殺害犯罪」のように、特定民族の抹殺などを意図してはいないけれども、「文民たる住民に対する攻撃であって広範又は組織的なものの一部として、そのような攻撃であると認識しつつ行う」殺害等(姓奴隷化なども含む)だとされる。

 だから、現在、「人道に対する罪」と言えば、ユダヤ人虐殺などとは区別されているということだ。それなのに、姓奴隷化などが「人道に対する罪」に入っていることをとらえ、ニュルンベルグ時点での知見に依存して、「慰安婦の問題はナチスに匹敵する犯罪」だと言うような人がいる。

 これは正確でないのだが、それ以上に問題なのは、慰安婦問題の罪をちゃんと裁くことにつながらないことだ。ナチスと同じだと言えば、朝鮮民族抹殺の計画があったことを証明しなければならないのに、そんなことはできないのだから、反論されればひとたまりもない。慰安婦問題を裁くには、現実に起きたことに即して問題を捉え、追及しなければならないということだ。強く批判する言葉を使えばいいというものではない。

 まあ、ドイツに行ってもポーランドに行っても、考えることは、日本の戦前のことをどう捉えるのかということばかりだった。当然だろうけれどもね。