2016年9月7日

 野党共闘が現実のものとなって、いろいろ勉強することがあった。新しい体験だから、新しく引き出せることがたくさんある。

 当初、野党共闘も連合政府も、戦争法を廃止する(付随して集団的自衛権の閣議決定の撤廃などもあったが)という限定的な目的で提唱され、議論されていた。これまでも、70年代だったらロッキード事件の究明とか、80年代だったら消費税阻止とか、限定的な課題での提唱と議論ってあったから、そういうものだと思っていた。そして、その課題を達成したら、基本政策が異なるわけだから、衆議院を解散して、その基本政策で争って次の政権選択を問うということだった。

 だけど、いま議論されているのは、出発点はそうだったかもしれないけれど、そういうものじゃなくなっているよね。少なくとも民進党が基本政策の一致が必要だと言っているのは、政権をともにするならば、もっと本格的なものにしようということである。特定の課題だけ達成して、それをやったら解散するというものではない。そして、共産党の側も、民進党の側の基本政策での一致論に対して、戦争法を廃止したら解散するんだから一致は必要ないなんてことは、現在は言っていない。ある程度の本格的な政権をつくるということが前提になっているように見える。

 そういう性格をもつ連合政府をどう位置づけるのかが問われているように思える。その分析抜きに、議論は進まない。

 共産党の綱領から見ると、これって、「その共同が国民の利益にこたえ、現在の反動支配を打破してゆくのに役立つかぎり、さしあたって一致できる目標の範囲で」つくる政府である。昔よく使われた用語でいうと、「よりましな政府」。

 でもさ、「よりまし」って、いまの安倍政治「よりまし」っていうことだから、一致できる課題以外では、あまり安倍政治と変わらないということだ。それなりに本格的に共闘して政府をつくろうとする時に、「よりまし」というのでは、共闘を組む相手に対しても失礼であるように思える。

 それよりも何よりも、国民感情とも異なる。野党共闘を求める人びとは、そこでできる政府が安倍政治とはまったく異なるものになることを期待しているわけだ。それに対して、まったく異なるものはもっと先の民主連合政府でできるのであって、当面はそこまで行かないんですというのでは、支える人びとの力も入らないし、野党間で連合政府のための議論をするにしても、かみ合わないのではないかと危惧する。

 だから、民主連合政府ではないが、ある課題を達成したら解散するというものではなく、安倍政治を転換するという国民の願いに応えようとする政府は、どんな意味があるのか、どんな性格をもつのかなどについて、突っ込んだ解明が必要であると思う。どうでしょうかね。

2016年9月6日

 民進党の代表選挙で、蓮舫さんが「基本政策が一致しないところと政権協力はあり得ない」と表明し、前原さんも「日米安保、自衛隊、天皇制、消費税の基本政策で一致しないと政権協力はない」と明言している。これに対して、野党共闘をめざす人から、少なからず批判の声も聞こえる。

 ただし、基本政策が一致しないと、政権協力はあり得ないというのは、ずっと共産党が主張してきたことだ。たとえば、4年前、前回の参議院選挙をめざして野党の協力を促す集会が開かれたとき、出席した共産党の笠井衆議院議員は、「国政選挙での政党間協力のあり方について」と題して、以下のように発言している(2013.5.28赤旗)。

 「そのためには、「国政の基本問題での政策的一致」と「共同の意思」、それにもとづく候補者の擁立であってこそ、政党として有権者への責任を果たすことができる。これが、どうしても不可欠だと考えています。
 その見地から、例えばTPPや米軍基地問題についていいますと、いま「米国いいなり」政治が大問題になり、日米安保条約の是非が根本から問われる情勢が進展しています。そのもとで、日米安保条約をなくし、自主・独立・平和の新しい日本という大目標をめざす。わが党は、この点での「政策的な一致」が必要だと考えており、そうでなければ、今後6年間の任期中に、日米安保に関わるさまざまな問題に対応していくうえで、政党として有権者への責任が果たせません。」

 やはり、基本政策が一致するかどうかというのは、政権を担おうとする政党にとって、決定的に重要なことである。だから、基本政策での一致が政権共闘の前提だという民進党内の主張を批判するのは、どうかなと思って見ている。必要なことは、基本政策がどこまで一致するのか、政党間で詰めて議論していくことだろう。

 本日の「赤旗」では、共産党の小池さんが、民進党内の議論をふまえて、「共産党は安保廃棄や自衛隊解消という独自の政策を共闘に持ち込まないと言っている」と主張していた。だから共闘に障害はないということらしい。

 これは、共産党にとっては、自衛隊解消が基本政策だと言っているようにも見える。綱領にはそう書いているが、綱領に書いていることは、果たして基本政策と言えるのだろうか。

 だって、この間の共産党の文献を見ると、自衛隊解消って「かなりの期間が必要だ」ということになっている。私もそう思う。解消できるとして、何十年とか100年以上の単位だろう。いま生きている世代のなかで現実味をもって来るようなテーマではない。

 そういうような時間がかかるものが、果たして基本政策だと言えるのか。基本政策というのは、やはり現実味を持って語れるようなものでないといけないのではないだろうか。

 どなたか、基本政策とは何なのか、教えてください。よろしく。

2016年9月5日

 昨日夕方からいままで、怒濤のような1日でした。うちの会社は9月が決算期なんですよね。で、9月にどれだけ売れる本を出せるかが、決算の結果を左右するので必死だったわけ。

 そのために、内田樹×石川康宏+池田香代子さんの『マルクスの心を聴く旅』を間に合わせることは必須でした。それだけではダメかなと思って、突如、自分が執筆する『「日本会議」史観の乗り越え方』を出すことにしたし。

 異常な忙しさ。2つの本とも12日にできあがってくるんですが、本日、京都にいては、それが13日になって、10月刊行の本になっちゃうんですよ。1月違っても、総売上が変わることはないんですが、決算期が穏やかに乗り切れないと、会社の雰囲気が良くなくなるので、がんばっちゃいました。

 問題は、そういう仕事の仕方をしていると、当面のことだけに力が集中しちゃうことですよね。先を見通した仕事ができない。

 南スーダン自衛隊の駆けつけ警護任務付与が11月に迫っていて、「自衛隊を活かす会」編で『南スーダン、南シナ海、北朝鮮──新安保法制発動の焦点』を出そうとしているのですが、まったく手つかず。間に合わない場合でも、こういう仕事のやり方の結果として、会社には受け入れてもらわなくちゃね。

 本日は、東京事務所で、工藤晃さんの本『マルクス「資本論」の見地から21世紀の世界資本主義を論じる』の編集会議でした。明日、この会議の結果をふまえ、工藤さんにお会いしに行きます。

 これ、200ページ以上の大部の本なんですが、180ページ程度は工藤さんの研究ノートだという、ちょっと見かけない本です。工藤さん、先日お電話したら、「何十年も研究してきたけれど、ようやくここまで到達できた。満足できる本が出せる」と言っておられました。ノートを公開することによって、その工藤さんの結論だけでなく、結論を導きだした思考過程とか、そのためにどんな本を読み、どんな角度で研究するのかとか、そんなことまで分かる本です。

 読者はノート部分を見て、買うかどうかを決めると思うんです。だから、そこが一見して読みにくそうだと、読者の手が出ないおそれがありましたが、そこが本当に読みやすく、美しくできあがっているので、受け入れられると思います。

 あと、小林よしのりさんの「ゴー宣道場」に私が招待され、議論したことをふまえた、『憲法九条で日本を守れるか』もそろそろ取りかからなければなりませんね。民進党の代表選挙を見ても、改憲問題は大いに議論になっていきそうです。

 というか、改憲論を楽しく愉快にやっていきたいと考えているので、そのためのいろんな本を考えたいと思います。悲壮感が漂っては少数派のように見えちゃうと思うのでね。

2016年9月2日

 一時期、保守との共闘という言葉が、よく使われていましたよね。まあ、野党と共闘する条件はないが、幅広い共闘をめざしているのだという、弁解めいた響きもありましたけれど。

 でも、私は、保守との共闘って、いまでもいちばん大事なことだと思っています。とくに日本では大事だと。

 戦後の保守と革新を分けるものはいろいろあったと思いますが、客観的に見れば、やはりアメリカをはじめとする西側か、ソ連をはじめとする東側かという対立構図が反映していたことは否めません。

 革新の側でも、ソ連との関係はいろいろでした。ソ連べったりの勢力もいれば(社会党のそれなりの部分)、ソ連のある問題点を鋭く指摘はするが、ソ連は程度は低くても社会主義であり、理論的には優れた社会主義社会がつくれるのだと考える勢力(共産党など)もありました。

 だけど、目の前の実態を素直に見れば、ソ連が優れた社会でないことは余りにも明らかだったので、ふつうの人はアメリカかソ連かの選択を迫られれば、アメリカということになったと思います。そして保守勢力にカウントされていった。

 革新の側には、ソ連がいい社会だと見えるような人と、そうは見えないけれど、将来は社会主義だろ理論的な確信を持てる人がついていった(だからなかなか仲良くなれない)。もちろん、それは当初の話で、時間が経つにつれて、ソ連をどう評価するかではなく、日本の革新勢力の姿を見て判断するということになっていったとは思います。

 ヨーロッパは違っていて、ソ連型の共産主義って、社会民主主義と訣別して誕生したわけで、どの国にもソ連と対決する社会民主主義勢力が存在していました。だから、ソ連が嫌いな人にとって、保守勢力を選ぶだけでなく、社会民主主義という選択肢も存在していたわけです。

 だから、ヨーロッパでは社会民主主義に行くような人が、日本では保守勢力に属するようになってしまったんですよ。保守との共闘というのは、理論的にも実態的にも、大事なことなんです。

 野党共闘を論じる際、保守勢力が邪魔になっているとして、純化路線をめざすような主張がありますが、これは論外です。保守勢力を糾合する野党共闘だけが、将来性に充ち満ちています。

 保守勢力のなかで協力できる人たちとできない人たちをどう見分けていくのか。それが大切なのだと思います。でもそれって、保守勢力との付き合いのなかで分かっていくものであって、外から論じているだけでは無理でしょうね。

2016年9月1日

 先日、ある研究者と飲んでいて、また前原さんの話になった。京都での焦点は、この話題だよね。

 その方が、前原さんのことを「安保マフィア」って呼ぶんですよ。まあ、予想されたことではあるが、いまでもそう言うかという驚きもある。それでだいぶ議論することになった。

 私は、前原さんに限らず、誰かのことを表現するのに、この言葉を使ったこと自体がない。だって、マフィアって、いろいろなものに使われるようになっているが、基本は犯罪者集団のことだ。金融マフィアというような特殊な使われ方をする場合も、犯罪すれすれのことをやっている人たちを指すのだと思う。そう簡単に使っていい言葉ではない。

 安保マフィアの場合、そうではないのかもしれない。せいぜいひどい使われ方をする場合も、戦争を煽ってもうけ仕事にしている人ってことだろう。アメリカでいうと、アーミテージとか。

 でも、それだって、犯罪者扱いする言葉が適当だとは思わない。強い言葉を使って批判するっていっても、正確に事実をあらわさない場合、一部の特殊な人の熱狂は生んだとしても、かえって多くの人の心をつかまないと思うし。

 前原さんの場合も、犯罪者扱いはおかしいし、戦争を煽って儲けているというのでもない。ただ安全保障を重視しているということで、そういう言葉を投げつけていいとは思わない。

 ただ、その研究者は現在、前原さんをはじめ民進党との共闘そのものに批判的なスタンスを取っている。だから、それでも整合性はあると思うのだ。強い批判的見地を抱いている相手との共闘はできないということだから。

 私が疑問に感じるのは、以前、民主党との共闘はあり得ないと主張していた人が、いま野党共闘は当然という立場に変わっていて、まあ安保法制の闘いで発展したということになっていて、それはいいのだが、かつての主張との整合性をどう考えているのか分からないことである。

 たとえば、民主党とか民主党政権の政策をとりだし、経団連の要望事項などと照らして、民主党のことを財界を代表する政党みたいな言い方をしていた人もいた。それをどう総括しているのかが見えない。

 そもそも、民進党に対する見方を変えたのか。それならいまは財界ではなく、何を代表する政党だと規定するのか。

 見方は変えないで共闘するのか。じゃあ、財界やブルジョアジーとの共闘ということになるが、それでいいのか。多少の理論的な修正、発展はあるのか。

 そういう議論がないまま、ただ枠組みとしての「野党共闘」があり、それからはずれることはダメというのでは、「野党共闘」も発展しないと思うのだ。どうなんでしょうかね。