2013年10月24日

 本日は一日中、『加藤周一最終講義』の編集作業。来週、加藤さんの著作権継承者にお会いするため東京に行くので、それまでにゲラや表紙の案を完成させておかねばならないので。

 その作業の必要があって、2007年1月に発行された「京都・宗教論叢」の創刊号に目を通した。2006年に設立された「京都・宗教系大学院連合」による発行だ。

 この連合って、その名前の通り、同志社などのキリスト教系の大学、龍谷など仏教系大学の連合体である。その設立シンポジウムがあって、加藤さんが「異なる宗教間の対話」と題して講演され、それが掲載されているというわけである。

 加藤さんによると、日本の仏教界では、宗派が異なると対話しないのが通例になってきたそうだ。挨拶もしないそうだが、本当かな。

 そういう中で、宗教系の大学が連合体をつくるというのだから、加藤さんも注目したのだろう。そして、このテーマで講演された。

 その講演は、宗教間のことが取り上げられているが、平和運動をはじめとした社会における運動と対話にも通用するものだと感じた。加藤さん、ずっとそういう問題意識を持っておられただろうし。

 加藤さんは、このような対話が成立するには、二つの解決方法があるという。

 一つは、「いろんな点で違っても、聖なる世界の中心部分では一致する」という考え方。「宗教的に高い水準で『小異を捨てて大同につく」とも言われている。日本でもかつて神仏習合というのがあったわけで、その伝統をふまえれば、現在でも通用するのではないかということだ。

 もう一つは、「『聖』と『俗』の切断」だと言われている。宗教って、世界観を生みだすわけだが、同時に世俗的な文化も生みだす。その「俗」の世界で共闘するのだと割り切れば、対話には大きな障害はないのではないかというのが、加藤さんの提起である。そっちの方が「もっと早く有効に作用するかもしれません」ともされている。

 そうだねえ、いろいろと考えさせる問題提起である。たとえば九条護憲の運動という角度で見ると、どういうことが言えるのだろうか。

 この問題って、「俗」の世界のことである。しかし同時に、「聖」とまでは言わないが、九条を「世界観」「価値観」で捉えている人も多い。だから、共通する要素があるようにも思える。

 多くの宗教は「絶対平和」の価値観を持っているが、しかしすべてがそうなわけではない。絶対平和」という異なる部分を脇に置いて「大同につく」という場合、どんな価値観を一致すべきものとして提示することになるのだろうか。「海外派兵は許さない」という価値観ということになるのだろうか。

 一方、価値観で一致することはやめて、「俗」の部分で共闘しようというのは、護憲運動ではどういうことになるのだろうか。戦争が生み出す被害とか、それがもたらす人権侵害を重視するのかなあ。もっと別のものだろうか。

 いろいろなことを考えさせられた1日だった。というか、まだ続いていますけどね。