2015年4月30日

 慰安婦問題では、韓国の挺対協(ていたいきょう。挺身隊問題対策協議会)が、韓国において非常に大きなポジションを占めている。そのことは、この問題に関心のある方にとってはよく知られている事実である。

 この20数年間、慰安婦問題を解決しようとして、いろいろな努力が行われた。けれども、日本政府の「法的責任」の明確化を求める挺対協と、「法的責任」はないとする日本政府との間で着地点が見えず、結局、暗礁に乗り上げてきた。

 その挺対協が、23日、「法的責任」を求めない方向へと転換した。北海道新聞が報道している。ネット上ではすでに削除されているので、以下、全文を掲げておく。

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慰安婦問題、日本に「法的責任」は求めず 韓国・挺対協、従来方針を転換
北海道新聞 4月25日(土)7時40分配信

交渉が停滞、現実的な戦略

 旧日本軍の慰安婦問題をめぐる韓国最大の支援団体・韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)が、日本政府に対して立法措置による賠償など「法的責任」に基づいた対応を求めてきた従来方針を転換したことが分かった。代わりに「政府と軍の関与の認定」や「政府による賠償」などを盛り込み、要求を緩めた。日本政府は慰安婦問題で人道的対応の必要性は認めているが、50年前の日韓条約などを背景に法的責任は否定。交渉が停滞する中、挺対協は現実的な戦略を選んだと言える。

 挺対協は慰安婦問題をめぐり、韓国政府の対応に大きな影響を与えている団体。要求を緩和したのは元慰安婦が高齢化していることに加え、従来の要求では「法的に解決済み」とする日本政府と平行線が続く可能性が高いためとみられる。

政府の賠償や謝罪の要求は変えず
 今回の要求は《1》当時の政府と軍が慰安所を設置し、管理した点の認定《2》女性が本人の意思に反して慰安婦になり、強制的な状況に置かれたことの認定《3》人権侵害の認定《4》明確な政府公式謝罪《5》政府による被害者賠償―など。このうち《5》以外は1993年の河野談話やその後の日本政府の対応におおむね含まれている。

 日韓の慰安婦関連団体の連合体は昨年6月にこの方針をまとめていたが、挺対協の尹美香(ユンミヒャン)代表が23日、同団体の方針として示した。

 挺対協はこれまで、日本政府の「法的責任」を追及し、《1》慰安婦制度を犯罪事実として認定《2》国会決議による謝罪《3》法的賠償《4》責任者の処罰―などの対応を求めてきたが、犯罪としての扱いは求めず、立法措置も除外した。一方、閣議決定などによる政府の賠償や謝罪を求めている点は変わらず、歴史教科書への記述や、真相究明も継続して要求している。尹代表は「(法的責任を直接追及しなくても)提案内容で、実質的に日本の法的責任を明確にできる」とした。

 慰安婦問題に詳しい東京大学の和田春樹名誉教授は「被害者の求めにも対応しており(日韓間の)問題解決の基礎になる案だ」と評価している。
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 私が書いた『慰安婦問題をこれで終わらせる。』という本は、乱暴に言ってしまえば、「法的責任」を求めていては、慰安婦の生あるうちに問題は解決しないということで、別の解決策を提示したものである。というか、「法的責任」というより、もっと大事な問題があるのだと問いかけた本である。

 そういう点で言うと、今回の挺対協の方針転換は、大きな意味があると考える。膠着してきた問題が動くきっかけになる転換である。

 しかし、まず、これが方針転換と言えるのかという問題がある。北海道新聞の報道だけだと見えにくいが、要求の第3項目目「人権侵害の認定」というのは、「国際法・国内法に違反して人権侵害がされたことの認定」ということだから、解釈次第では、慰安婦に対する人権侵害が日本政府が主体となってやられたことだと認めよということになり、それだと「法的責任」を求めないという主張とは矛盾する。「賠償」についても、一般に違法行為の救済措置として支払われるものであるから、日本政府が支払うことは、日本政府が違法行為をしたと認めることにつながるものである。

 しかも、この20年以上、「法的責任」を日本政府が認めるのが唯一の解決策だと主張し、韓国でも日本でも、支援団体はその立場で活動してきた。だから、挺対協のトップが方針転換を明言したといっても、それがどう受けとめられるのか、まだ現時点では行方が見えてこない。

 もしかしたら、この転換を批判する声も出てくる可能性もある。というか、実際に出ている。その声が強くなって、挺対協の方針転換が押し戻される可能性だって、まったくないとは言えない。

 だけど、その声というのは、挺対協の20数年来の活動が生みだした声だから、自分で克服していかねばならないものだ。だから、これでは前に進まないから妥協したという見地ではなく、この方針転換が大事であるということを、どれだけ多くの関係者が自覚し、周りに伝えていけるかということだ。大きな転換だから、はげしい議論は避けられないのであって、議論を怖がらず、真剣に向き合うことだ。

 私の本は、この転換の大切さを理解する上で、意味のあるものだと自負する。私の本が発売された日の翌日、この転換が公表されたことは、そういう点で象徴的なことだと捉えて、この本の見地を広げるためにがんばっていきたい。

2015年4月28日

 安倍首相の訪米が歴史認識との関係で注目されている。安倍さんの歴史観がアメリカの歴史観と衝突するわけだから当然だ。

 だけど、安倍さんが堂々として揺るがないように見えるのは、自分の歴史観に国民の支持が多いということを背景にしている。アメリカ頼みで安倍さんの歴史観を牽制しようとしても(それに一時期は成功したように見えたとしても)、国内世論を変えていかないと、根本的なものにはならない。

 だいぶ前、ある新聞記者から、「安倍さんを歴史修正主義者だと思いますか?」と聞かれた。私の答は、「歴史修正主義者と言えるほど歴史に通じてはいないのではないか。だって、安倍さんの口から出てくる言葉は、身内の人の発言を聞きながら覚えた、まさに耳学問の言葉だから」というものだった。

 ただ、その身内の人の発言というのが、安倍さんにとっても、安倍さんを支持する人にとっても、心地よい発言であるわけだ。日本はこんなひどい国だと言われるより、日本はいい国だと言われる方が、聞いていて気持ちがいいことはたしかで、安倍さんへの支持は、そういうベーシックな国民感情を基盤にしているから、壊すのはそう簡単ではない。

 だから、その国民感情に寄り添いながら、ちゃんとした歴史観を提示するという作業が必要だと思っている。いかがでしょう。

 実際、日本の栄光と日本の自虐は、一体のものだと感じる。たとえば、日本が侵略の道を進んでいったことは事実としてあるわけだが、同時に、その道を進んだのは、アジアのなかで日本だけが欧米並みの水準の国になったという、栄光の事実の裏返しなのだ。

 日本は一流の国になろうとしてがんばった。その成果もあった。不平等条約を撤回し、平等なものにした。でも、平等なものにするために、日清戦争や日露戦争で朝鮮半島を我が物にすることが求められた(当時の欧米の水準はそんなものだった)

 そのあたりの関係を、うまく書けないかなと思っている。栄光の歴史観に浸っている人に対して、「そうだよね」と共感しながら、「でも、栄光だと思っていたから、自虐的なことになったんだよね」と提示できるようなものだ。そして、あなたの栄光史観って、自虐史観と同じだよねと、最後は切って捨てることのできるようなものだ。

 それが次回作の構想。まだ構想とまでは言えないけどね。

2015年4月27日

 「自衛隊を活かす会」は、憲法九条下の防衛戦略について、ただただ真面目に考えているだけではありません。いまふうに楽しい活動もしなくちゃねということなんです。

 それで、6月20日の「関西企画」の夜、ジャズセッションをやることにしました。伊勢崎賢治ジャズヒケシin北新地〈with木畑晴哉トリオ〉です。

伊勢﨑賢治ジャズヒケシin北新地_20150327_01

 ジャズヒケシって、ご存じでしたか。伊勢崎さんが何年か前からやっているんですが、戦争の火を消すヒケシになぞらえて、ジャズを聞きながら戦争と平和を考えるんです。

 それは選曲にも反映されますが、同時に、それにかかわるトークをするというのが、大きな特徴です。今回のトークの相手は、某自衛隊元幹部とだけお知らせしておきます。

 先週木曜日の報道ステーションごらんになった方もいるでしょうけど、伊勢崎さん、テレビ朝日のスタッフとともに、アフリカのコンゴ(民主共和国)に行ってきました。そこで戦争の当事者になった国連を見てきて、いろいろ考えたみたいです。コンゴって、国連が集団的自衛権の発動を認めた数少ないケースの一つで(99年4月、安保理決議1234)、その後、ぐちゃぐちゃになって、2013年3月、武装組織を解体することを任務とし、そのために武力行使権限を与えられたPKOがつくられたんです。伊勢崎さんにとっては大きな衝撃だったようで、刺激的な話が聞けると思いますよ。

 午後6時から、北新地のサンボアというバーです。北新地で、ワンドリンクが付いて、プロのジャズとトークが聞けて、4000円という破格の値段です。サンボアといえば、銀座のサンボアでもジャズヒケシをやったことがありますが、角のハイボールでウィスキーの量が半端でなくて、伊勢崎さんが目を丸くしてました。自衛隊を活かす会代表である柳澤協二さんの歌声も聞けるという噂もあります。

 ただし、これ、先着40名限定なんです。参加したい方は、ホームページから名前や住所等を書いて申し込んでください。すぐに振込先をお知らせしますが、振込を確認した順番で40名にチケットをお送りします。

2015年4月26日

 書く本のテーマを慰安婦問題にしぼることに決めたものの、当然のことながら、それまで深く勉強したことはありませんでした。ただ、いろいろ問題意識をもったことは、過去、何回かありました。

 最初は、「あとがき」に書いたことですが、共産党の政策委員会というところに勤めていたときのことです。1995年の戦後50年にあたり、戦後補償問題をどうするかという共産党の見解を出すことになり、その起案を命じられたのです。私は、共産党の政策というのは、被害者の要求に全面的に応じるのだと思い込んで準備していたのですが、当時の宮本顕治議長から、そうではないという意見があったのです。

 それ以来、国民の要求と政治の対応について、いろいろ考えさせられました。まあ、考えてみれば当然のことで、すぐに何でも実現することが可能なら、共産党だって共産主義の即時実現を掲げるわけですよね。しかし、目標の(あるいは理想の)実現には、それに至るステップが必要なのです。要求を掲げてがんばるのが市民団体ならば、実現可能なステップがどこにあるのかを見極めるのが、政治の役割なのだと思います。

 共産党を退職したわけですから、別に、私が実現可能なステップを考える必要はないのです。だけど、慰安婦の方々を見ていると、誰かがそれを提示しないとダメだと思ってはいたのです。だって、せめていま生きている慰安婦の方々には、日本政府が誠意ある対応をしてくれたと感じて、平穏な気持ちになってもらって、晩年を過ごしてほしいじゃないですか。

 でも、この問題では、理想をかかげてがんばる人たちと、慰安婦問題は存在しないと主張する人たちが対立するだけでした。お互いが合意できる実現可能なステップを提示しようという人は現れなかった。そんなことをすれば、両方から批判されるわけですから、当然かもしれませんけれど。

 それで、誰もやらないなら、自分がやろうという感じですかね。左右の両方から批判されるのには慣れていますから。というか、左右の両方から批判されるようでないと、常識的なものは示せないと革新していますから。その結果がどうなるか、まだ見通せませんけど、きっと理想に向かう妥協の道が、少しずつ現実のものになっていくと思っています。

 なお、宮本さんと直接に話す関係にあった方が、この本を読んで感想を寄せてくれたのですが、宮本さんは、共産党の国会議員が慰安婦に土下座するようにして謝罪するのも良く思っていなかったそうです。国家としての反省は必要だが、なぜ植民地支配に反対した共産党が謝るのか、ということだったとのこと。宮本さんのことは、深めてみたいですよね。この方でしか書けないだろうという方に、評伝を書いてほしいと依頼しているので、ご期待ください。
 

2015年4月24日

 アマゾンで買えるようになりました。こちらからどうぞ。さすが大手は、手を打つのが早い。

 昨年4月に書こうと思ったときは、まだ『超嫌韓流』ですから、日韓関係全般のつもりだったんです。だけど、ご存じのように、6月に政府が河野談話の検証結果を出して、8月に朝日が吉田証言の取り消しということで検証報道を出してと、相次ぎました。

 その報道に対してなされた嵐のような批判を通じて、慰安婦問題では慰安婦に寄り添ったかたちでやってきた運動とか、それが掲げてきた主張とかが、全部ダメだという社会的な風潮がつくられてきました。このままでは朝日新聞とともに左翼壊滅か、ということまで感じさせる規模、内容だったと思います。

 それに対して、私は、右派からの攻撃よりも、左派の対応が気になりました。右派の攻撃を「朝日バッシング」だとして、批判する矛先を朝日ではなく、もっぱら右派に向けるやり方です。

 いや、もちろん、行きすぎた批判というのはあるでしょう。だけど、間違ったのは朝日なわけで、その朝日を批判しないで、逆にかばうようなことをしていて、世論からは「ああ、仲間内で傷をなめあっている」と見られないかなと感じたのです。「朝日新聞とともに左翼壊滅か」と思ったのは、そういう理由からです。

 しかも、実際に大切なことは、朝日がなぜ、何を間違ったのかを探ることです。そこをつかむことができないと、同じ過ちをくり返す必要があるわけですから。

 たとえば、朝日は、吉田証言が問題であることは90年代半ばには気づいており、「強制連行」という言葉もその当時から使ってこなかったといいます。慰安婦問題にかかわっている方々も、「朝日バッシング」のなかで同じようなことを言いました。そして、「言ってもいないことを取り上げてバッシングしている」と反論する人も少なくなかった。

 でも、問題だなあと気づいたのは事実でしょうけれど、吉田証言は間違いですと明言しなかったことも事実です。「強制連行」という用語は使わないとも明言しませんでした。だから、多くの国民は、朝日や市民運動が立場を変えたなんて、露ほども知らなかったのです。それをいまさら、「だいぶ前から変わっているんですよ、不勉強ですね」と反論しても、まったく通用しないでしょう。

 これは過去の問題ではありません。ここでは明示しませんが、慰安婦問題での市民運動が、現在進行形で同じようなことをしているので、また同じことがくり返されるのではないかと、本当に心配しているのです。

 ということも含めて、慰安婦問題とは何か、何が問題なのかが極められなかったことに、朝日が間違いを犯した原因があるのではないかと思いました。でも、それを素人の私がやろうとすると、大変なことだなあ、本なんか書けるのかなとちゅうちょした時期もあったのです。

 昨日もサボったので、明日は土曜日だけど、記事を書くつもりです。(続)