2016年3月3日

 本日は午後から新大阪へ。著者である大学の先生と打合せ。

 その仕事の続きで、話題は革命論へ。これって、いつかは自分でも挑戦したい分野だ。

 日本共産党が資本主義から社会主義への移行を「革命」と呼ばなくなって久しい。これは衝撃的な変化だったが、私の周りでは、あまり話題にならなかった。

 変化の根拠となっているのは、レーニンの有名なテーゼである。「革命とは権力の移行」という、あのテーゼ。

 昔は、資本主義においては独占資本が権力をにぎっていて、社会主義では労働者階級が権力をにぎるとされていた。こうして権力の移行があるので「革命」と呼ぶのが当然とされてきたわけだ。

 しかし、日本共産党は、資本主義の枠内における民主主義革命の段階で権力が人民に移行すると考える。そして、社会主義になって労働者階級が権力をにぎっても、人民権力の枠内なので、「革命」と呼ぶにはふさわしくないということなのだ。

 ただ、そういうことになると、資本主義の枠内における革命というのは、いったどの時点でのことかという難しい問題が生まれる。人民が権力をにぎるって、どういう状態のことなんだろう。

 共産党のいう民主主義革命というのは、現在では、民主連合政府の樹立をもって開始されるということだから、その段階で人民が権力をにぎるのだろうか。しかし、それ以前の段階では独占資本の代表者が権力をにぎっていて、民主連合政府になったら人民が権力をにぎるって、かなり機械的な理解になるだろう。

 また、そういうことになると、いま共産党が提唱している国民連合政府というのは、人民の権力と何の関係もないのかということになる。共産党は、安保法制廃止の市民運動を捉えて「市民革命」と呼んでいるのだから、「革命とは権力の移行」という見地からして、国民連合政府の段階で、部分的であっても何らかの権力の移行が行われると考えていることになる。

 さらに、主権在民とそれを選挙で貫くための仕組みである普通選挙権があり、どんな政府であれその選挙を通じて生まれているわけだが、それだけでは人民が権力をにぎっているということにはならないのか。あるいは、民主党政権ができたときも、権力の移行というのは1%もなかったのか。

 よく、日本では主権在民といっても自分で闘いとったものではないから、成熟度が低いといわれる。だからまだ独占資本の代表者が権力をにぎっているのだと。

 それを認めるとして、では、主権在民を自分で闘い取った国では、すでにかなりの程度で人民権力が確立していると言えるのだろうか。もちろん、どの国にも独占資本は存在しているわけだが、それと人民権力の関係をどう理解したらいいのだろうか。

 いずれにせよ、主権在民のない国では、どうひねくり回しても権力が人民のものになることはないのだから、そういう見地で中国を見ると何が言えるのだろう。中国ではまだ「革命」さえ起きていないということだろうか。革命だと捉えるなら、どの権力からどの権力への移行だったのだろうか。

 こういう問題にすっきりと決着を付けたいな。そうじゃないと、どうも力が湧いてきません。