2016年3月18日

 慰安婦報道で大きなダメージを受けた朝日だが、そこから起ち上がっていろいろ努力してきたと思う。だけど、鹿児島の川内原発のモニタリングポストをめぐる最近の報道を見ていると、再生はまだまだだなあと感じてしまう。

 経過を追うとこういうことだ。まず、14日付朝刊一面トップで、「避難基準線量 半数測れず」「川内原発30キロ圏「モニタリングポスト」」という見出しの記事が掲載された。 

 福島原発事故のあと、大事故が起きたら5~30キロ圏内の人は、モニタリングポストで測った放射線量が毎時20ミリシーベルトが1日続いたら1週間以内に、毎時500ミリシーベルトに達したら即時に避難することになった。その基準にもとづき、川内原発の5~30キロ圏内には48台が設置され、再稼働に至っている。

 朝日の記事は、「モニタリングポストのうち、ほぼ半数が事故時の住民避難の判断に必要な放射線量を測れないことがわかった」「22台は毎時80ミリシーベルトまでしか測れず、すぐに避難する判断には使えない」とするものだった。

 しかし、放射線量を測るには、主に低線量を測るものと、主に高線量を測るものとの2種類が必要だそうで、500ミリシーベルトを測れないものがあるのは当然のことだという。封筒に貼る郵便切手を決めるためには、体重計では無理で、軽いものしか測れないスケールを使うのと同じ原理だ。

 だから、この記事はおかしいという声がすぐにあがることになる。私の回りでも、知り合いの朝日新聞の記者にすぐに知らせた人もいる。

 ところが、朝日はそういう声を聞いて検証するのではなく、翌15日、同じ内容を社説に書くことになる。一記者のスクープ(=勇み足)を新聞社の公式見解にしてしまったのである。

 さすがに原子力規制委員会も黙っておられず、15日に「平成28年3月14日朝日新聞朝刊の報道について」という見解を発表した。「それぞれの検出器の測定範囲を踏まえ、低線量率から高線量率までカバーできるように、各検出器を組み合わせて地域の実情に応じた配置」をしているというものだった。同委員会の田中俊一委員長は、16日に記者会見をして、「立地自治体や周辺の方たちに無用な不安をあおりたてたという意味で犯罪的」とまで発言したそうだ。

 これに対して朝日新聞は、17日、社会面で長めの記事を掲載した。見出しは四つもある。「規制委、本社記事を批判」「川内原発周辺の放射線量計」「本社、避難の判断指標重視」「高線量用の配備数に着目」というもの。

 この記事が意味不明である。少なくとも反論になっていない。「高線量用の配備数に着目」して、それをもっと増やせという記事なら、何の問題もなかったのだ。ところが朝日の14日の記事は、「22台は毎時80ミリシーベルトまでしか測れず、すぐに避難する判断には使えない」という記述でも分かるように、低線量率を測るの検出器は避難のためには無用だ(言葉は悪いけど)といわんばかりのものだったのだ。

 17日の記事は、その問題には何もふれていない。両方が必要だという見解には口を閉じたまま、「高線量用の配備数に着目」したと強調するだけなのである。

 だから、原子力規制委員会は、この記事についても見解を発表した。「原子力規制委員会における審議や原子力規制庁の見解も引用されていますが」としながら、「現時点における線量計の設置が、緊急時の防護措置がとれないかのような誤った解釈を招きかねない」と重ねて批判をしている。

 この見解について、本日の朝日が取り上げている。短い記事。

 モニタリングポストがどうなっているかは、周辺住民の重大な関心事である。その問題を記者が追いかけるのは当然である。その過程で勇み足があるのも理解できる。高線量用のものが足りないというなら、キャンペーンすればいい(するべきだ)。

 しかし、問題になっているのは、高線量用が足りないから増やせという記事だったからではない。低線量用のものでは避難の判断ができないと明確に書いていたからだ。そうならば、その記事の中心点についてどう考えるのか、それを言わない限り信頼は生まれない。

 間違った記事が出ることはあるのだ。どの新聞にもある。慰安婦問題の教訓は、そういう間違いを犯したときに、それをどう受けとめ、検証するべきかということだった。

 「強制連行ではなく強制性が問題だ」とする論調に対して、論点をずらしているという批判が強かった。「強制性が問題」なのは認めるとしても、じゃあ「強制連行のほうは総括できているのか」という批判だった。

 今回、「高線量の問題だ」として、低線量のことに目をふさいでいるのは、似たような感じがするのだが、どうだろう。杞憂であってほしいけれど。