2016年4月18日

 昨日は私の母方の親戚一同が我が家に集合した。こんな集まりは30年ぶりだろう。11人の平均年齢を計算したら、ちょうど70歳ということで、こんな規模では二度と集まれないかもしれない(集まりたいけど)。

 東は東京から西は長崎から(みんな長崎県の崎戸という小さな島の出身だ)。長崎(諫早)から出てきた親戚は、熊本の地震で家が揺れはしたけれど、大丈夫だということを確認して出てきたのである。

 その熊本地震。さっそく菅官房長官が15日、憲法に緊急事態条項を入れることの「大切」さとからめ、記者会見で発言した。

 「今回のような大規模災害が発生したような緊急時に国民の安全を守るために、国家、国民みずからがどのような役割を果たすべきかを憲法にどのように位置づけるかについては大切な課題だ」

 なんでも憲法改正につなげようというのは、改憲をねらう人たちにとっては当然のことかもしれないし、わりと成功しやすい。だけど、今回に限って言うと、世論形成という点では失敗に終わると思う。

 なぜなら、現実の事態の進行が、行政権力に権限を集中させることの問題を浮き彫りにしたからである。みんな知っていることだが、初日、政府が「青空避難」を解消せよと主張し、それに対して、熊本県知事が、「避難所が足りなくてみなさんがあそこに出たわけではない。余震が怖くて部屋の中にいられないから出たんだ」と不快感を示したという問題である。

 いま安倍さんがいろいろ努力している姿は評価している。熊本の方々のためにがんばり抜いてほしいという気持ちを私がもっていることは当然である。

 「青空避難」の解消ということも、テレビその他で被災者の姿を見ていて、そういう気持ちが湧いてくるのは自然かもしれない。私だって、車で寝泊まりしている人の話を聞いていると、何とかならないかと感じることもある。

 だから、「青空避難」の解消は、善意で主張しているわけだ。別に独裁者が権力を集中して振り回そうという意図で発言しているわけではない。

 だけど、災害という非常事態において、現場にいるわけでもない人に権力を集中してしまうと、現実とかけ離れた対策がとられてしまう可能性があるというわけだ。いまの体制なら、政府が何かやろうとしても、現場にいる人たちの主張があって是正されるが、権力が集中されてしまうと、そういう力が働かなくなるということだ。

 緊急事態条項の創設について、独裁権力の確立が目的だという言い方がされることがある。そういう要素があることは否定しないが、あまりにおどろおどろしくて、現実味に欠けることも事実だ。

 今回の事態を見ながら思うのは、安倍さんが緊急事態条項をめざすのは、独裁権力というよりも、みんながうろたえている緊急事態において、自分だけがカッコよく指示を飛ばし、すべての行政機関、地方自治体が整然と動く姿を見せつけたいというところにあるのかもしれない。まあ、そのことによって政権への支持を増大させることになるなら、やはり独裁的な権力ができるのかもしれないけれどね。

 だけど、そういうやり方が現場とは軋轢を生み出すことが、今回の最大の教訓である。安倍さんはちゃんとその教訓をくみ出すことができるのだろうか。