2016年3月29日

 昨日、列車でリバプールからロンドンへ。車窓からの風景がいい旅でした。原発も見えたりして。

 ロンドンについて、昼食後、マルクスのお墓へ。マルクスを飯の種にしているのだから、ロンドンを訪ねたらお花ぐらい手向けなければという内田先生の発案でした。

 いろいろ名所をまわり、最後が、内田、石川両先生による対談です。産業革命発祥の訪ねたにふさわしい資本主義論を論じ合いました。これは本を楽しみにして下さい。

 本日は、1日中フリー。夜、ツアー最後の夜の打ちあげをロンドンのパブでやるので、そこで両先生の最後のご挨拶を録音すれば、仕事もすべて終わりです。

 パブって、イギリス労働運動の源流だとご存じですか。18世紀末の労働者が激しい労働の合間、少しでもくつろげるのがパブだったんです。そこで最初は、みんなで話し合って、ケガや病気の備えのためにお金を出し合い、共済制度のようなものが開始されました。19世紀になって、パブでの話し合いのなかで、この状態そのものを改善するために闘おうということになった。それで労働組合ができてくるのですが、パブのマスターは、組合の委員長だったり会計係だったりしたわけです。最後まで「マルクスの旅」です。

 昨年、池田香代子さんと訪ねる戦後70年の旅ということで、アウシュビッツとドイツに行きましたが、それはあくまで「著者と訪ねる旅」。その旅を仕事にしようなんて気持ちはありませんでした。

 今回の旅は、そこが違っていて、はじめから本をつくるために企画し、実施したものです。お二人の対談を2回しましたが、当然、仕事だから、対談テーマをどうするか、事前に考えるわけです。でも、旅で何を見て、何を感じるのかと無縁にテーマを設定しても、ちょっと嘘くさくなると思って、ぶっつけ本番でした。

 それぞれが話すわけですから、取り上げるテーマが違います。当然ですよね。だけど、二人が(ツアー客も)同じものを体験しているから、どこかに相通じるものがあるんです。だから共感できる。

 だけど、これを本にしたとき、手に取る読者はツアーを体験していません。読者が実際にツアーを体験しているような気持ちになってもらえるような本になれば、この本、成功すると思います。

 明日はトランジットも含めると16時間もの関空への移動ということで、このブログを次に書くのは月を越えて4月1日になると思います。また、お会いしましょう。

 安保法制が施行されましたね。自衛隊を活かす会が次のシンポ(4月22日)のお知らせを出したら、わずか4時間で25人もの申込みがありました。日本に戻っても、忙しいです。

2016年3月28日

 本日、リバプールを離れてロンドンに向かいます。マルクスのお墓に花を手向けたあと、内田、石川両氏の対談です。

 マンチェスターとリバプールは、とってもいいツアーになったと思います。偶然が作用した結果なんですけどね。

 マンチェスターのあと、どこで泊まるかは、なかなか難しい判断でした。北の方にロバート・オウエンがつくった協同組合工場が残っていて、そこで宿泊もできるのです。マルクスは、10時間労働制の実験として高く評価していましたから、そこに行く選択肢もありました。

 だけど、遠いんですね。ツアーも4日目となると疲れも出てくるし、近くのリバプールならビートルズとの出会いを楽しみに参加するお客様もいるだろうし、9日間の旅だから少しは楽しさも必要なので、ここにしたんです。

 マルクスとの関係はと尋ねられたら、ここに奴隷博物館があることにしようと、理由を跡づけしたんです。マルクスは、「奴隷制がなければ綿花はない。綿花がなければ近代工業はない。奴隷制は植民地に価値を与え、植民地は世界貿易をつくりだし、世界貿易は機械制大工業(産業革命)の必須要件だった」(1846年12月28日付け書簡」)と言っていますしね。

 ツアー出発直前、いろいろ調べていたら、マンチェスターにリンカーンの像があることを知りました。なぜだろうと理由を調べてみました。

 南北戦争が始まったとき、南部からの綿花の輸出が途絶えて、イギリスでは「綿花飢饉」と呼ばれる事態になったそうです。それまでイギリスの輸入の4分の3を占めていたアメリカからの輸出が、5%程度にまで下がり、工場は大半が操業を中止し、常勤の労働者は1割になったと言われています。

 南部の諸州は、イギリスの代表を送り、南部を支援してくれたら、いまのイギリスの苦境は抜け出られると説得したそうです。でも、マンチェスターの労働者は、リンカーンを支持する立場に立ち、集会を開いたりした。それが全国に広がって、ロンドンでも集会が開かれるに至り、マルクスも演説したそうです。

 そこで、リンカーンがマンチェスターの労働者に感謝の手紙を送ったんですね。実際、像のところにいったら、その手紙が彫られていました。とても見える状態ではなかったので、昨日、ネットで検索して見つけましたけど。

 こうやって、偶然のことなんですが、マンチェスター、リバプール、マルクスが奴隷制でつながったんです。なんだか、はじめから狙って企画したような旅になりました。

 偶然と言えば、もう1つ。マンチェスターの科学・産業博物館で当時の紡績機械と織機が展示してあって、しかし誰も説明ができないんです。その時、今回のツアー客のなかに、女工をめざす生徒の学校の先生をやった経験のある方がいて、見事に説明してくれました。この機械ではなぜ病気になりやすいのかも教えてくれました。

 偶然が作用して、本当にすばらしい体験をしました。ロンドンの二日間で旅は終わり、あとは「若者よ、マルクスを読もう」の「番外編」つくりにまっしぐらです。

2016年3月27日

 昨日はフランクフルト空港を飛び立ち、一路マンチェスターへ。エンゲルスが住んで、経営者としてマルクスの生活費、研究を稼いで送っていた場所です。マルクスやエンゲルスが『資本論』『イギリスにおける労働者階級の状態』で描いた当時の紡績機械が展示してあって、ちゃんと動かしてくれるところがすごかった。

 その後、リバプールまで移動。これらは明日にでも詳しく書くけど、本日は、昨日の続きで、なぜマルクスはあんな立派なフランクフルト憲法にいちゃもんをつけたのかという話です。

 当時の状況がどんなものだったかを考えると、理解できると思うんです。マルクスは理想と現実の狭間でいらついていたと思うんです。

 ドイツでは48年3月革命があって、フランクフルト憲法制定へと向かっていくわけですが、マルクスは、その一カ月前、『共産党宣言』を出したばかりでした。共産主義の目標を確立し、議会なんか存在しない状態だから、共産主義のためには実力で革命が必要だと宣言したのです。

 ところが、革命が起こっちゃいました。プロイセン皇帝は、憲法をつくることを約束し、そのための議会を招集するとして、なんと男子の普通選挙権にもとづく選挙がされることになったのです。

 さすがにマルクスのことですから、現実的に考え、共産主義なんて当面の目標じゃないことは自覚します。大事なのは君主制を廃止して民主共和制の国にすることだと考え、男子だけでなく女子も含む21歳以上の普通選挙権などを主張します。

 でも、マルクスは亡命先にいて、ドイツで影響力を発揮できません。4月になって帰国し、6月に「新ライン新聞」を創刊してがんばりはじめるのですが、その時点では、すでに選挙は終わっていて、議会ができちゃったのです。だから、「新ライン新聞」創刊号の論文は、「フランクフルト議会」というタイトルで、議会の会議録を取り寄せて、それを分析するものになったわけです。

 マルクスの影響とまったく関係なく選ばれた議会ですから、君主制を廃止するというマルクスの思惑とはまったく異なった構成になりました。林健太郎さんという歴史学者(元東大総長)の研究によると、総数は649人だったそうですが、左翼に属するのは260名程度。3分の1にすぎませんでした。しかも左翼といっても、半分を占める「穏健左翼」はみんな立憲君主制の支持者で、残りの左翼のなかでも君主制については意見が分かれていたようです。

 つまり、マルクスのように君主制廃止を唱える議員は、ほとんどいなかったのです。そして、議会では、どの程度の君主制を残すかということばかり議論しているのです。

 男子だけとはいえ、いちおうは普通選挙がやられて、国民の意思が示されたのに、そしてマルクスは共産主義という目標をとりあえず脇において現実路線を進んだのに、その現実路線も実際の現実とはかけ離れていた。

 当時の「新ライン新聞」を見ていると、そういうマルクスとエンゲルスのいらつきが伝わってきます。高い理想をもって、はじめて現実の政治と向き合って見て、その乖離がすごかったんですね。

 フランクフルト議会は、それでも立憲君主制の枠内ですごく立派な憲法をつくって、プロイセン国王に全ドイツの国王になるよう要請します。しかし、それを受け入れると、議会にしばられる国王(立憲君主制)になっちゃうということで、プロイセン国王は拒否し、議会を解散するわけです。そして、のちに自分でつくった憲法(欽定憲法)を公布することになるのです。

 そういう新しい状況下で、エンゲルスは次のように考えます。「ドイツ国憲法は、外見上もっぱら人民に由来していた点に特徴があっただけでなく、同時に、矛盾だらけであっても、やはり、全ドイツでもっとも自由主義的な憲法であった」

 こうして、各地でフランクフルト憲法を擁護するための武装蜂起があるのですが、エンゲルスは武装闘争に司令官として参加します。そういう点では、現実の状況が変われば、同じ文面の憲法であっても、批判したり擁護したり変わっていくということなんです。

 現代においても、理想を持っている人が、それとかけ離れた現実を認めなければならない局面があります。そうでないと、その先に進めない(理想はもっともっと先の話)という局面です。理想を持った運動って、そこをどう捉え、実践するのかが、発生以来、ずっと問われ続けているのだと思います。

2016年3月26日

 昨日は、トリーアからフランクフルトへ。明日、イギリスに行くため、ハブ空港のあるところへ来たということもあるんですが、それに加え、どうしても行きたい場所があったんです。

 それは聖パウルス教会。フランクフルト憲法を審議した場所と言って分かるでしょうか。

 教会の入り口にケネディのレリーフがあって、「ここは自由が誕生した場所だ」という演説の一句が彫り込まれていました。フランクフルト憲法のことをそういうふうに位置づけているんですね。

 日本ではあまり有名ではない憲法ですが、1848年のドイツ3月革命のなかで誕生した憲法です。革命があって、ドイツ全土で男子の普通選挙をやって議会をつくり、憲法を審議することになるんです。その議会が、この聖パウルス教会で開かれたというわけです。

 そこでつくられた憲法が、その後の各国の憲法にとっても大きな影響を与えます。だって、国民の自由と権利をはじめてかなり包括的に歌い上げたんです。政治的な権利だけじゃなく、無償で教育を受ける権利とか、いまでいう社会権まで入っています。

 その草案を中心になってつくったのが、この旅に同行している池田香代子さんが多くの訳をしているグリム童話のグリム兄弟のお兄さんのほうです。そのことを教会に向かうバスの中で池田さんが説明していると、憲法の内容を説明する前にバスが着いてしまって、仕方ないので残りは夕方にどこかでと思っていたんです。

 そうしたら、その元議事堂に行ってみると、そこには全員が入れて、声をあげて説明をしていいということになっていて。だから、池田さんが壇上のところにたって、グリムの指定席だったという最前列中央に自分の荷物を置いて、ツアー参加者に憲法の中心条項を読み上げ、説明することになりました。

 いやあ、こんな偶然、すごいです。池田さんも目がウルウル。

 だけど、マルクスとエンゲルスは、48年6月に創刊した「新ライン新聞」創刊号で「フランクフルト議会」と題した論説を出しているんですけど(執筆はエンゲルス)、フランクフルト憲法をけちょんけちょんに批判しているんですね。なぜそんなことになったのかを、「マルクスの旅」にふさわしく、本日朝、空港に向かうバスのなかで説明しておきます。

2016年3月25日

 旅の実質一日目は、マルクスが生まれたトリーアの街で過ごしました。ローマ帝国時代の中心地であったということで、世界遺産だらけという感じでしょうか。

 もちろん、定番の「マルクスの生家」にも行きました。そこで、画面上でマルクスの横で写真を撮り、それを自分のメールアドレスに送れるという、先進的なサービスがありました。テンプレートが3つありましたが、そのなかからひとつ。

1458813425

 マルクスの生家は、まさに生まれただけの家で、一カ月くらいしか住んでないんです(赤ちゃんだから自覚もないでしょうし)。それよりも、次に移り住んだ家もあって、いまは一階が100円ショップになっているっていうのが、なんとなくおかしかったです。

 夜は、ブランデンブルク科学アカデミー(由緒のある研究所です)のヘレス教授をお迎えし、現在のマルクス研究についてお伺いしました。これが面白かったです。

 何が面白かったかというと、この教授が、「歴史におけるマルクス理解」という手法をとって研究しているということです。マルクスというと、「こんなことを言った人」みたいな理解が20世紀になって広がっていますが、19世紀に活躍したマルクスを、その19世紀の枠組みで理解しなければならないということです。

 いまから99年前にロシア革命があり、マルクスの予見が実現したということで、そのマルクスをレーニンとかスターリンがどう解釈し、評価したかということが、そのままマルクスが考えていたことであるかのような見方が生まれました。それではダメだということが日本でも言われていますが、ドイツでも同じようなことを考えている方がいるわけですね。

 この教授は、マルクスがもっと現実的にものを考えていた例として、『共産党宣言』を出した直後に1848年3月革命があったけれど、そこでマルクスが掲げたのは共産主義ではなく、普通選挙とか民主共和制(君主制を廃止して)だったことを強調しました。ホントにそうなんですね。

 でも同時に、君主制の廃止だって、かなりハードルの高い目標だったんです。当時、革命で普通選挙(男子だけ)があってつくられた議会でも、君主制を残そうという議員がほとんどだったんです。それで私は、マルクスが本当に現実的にものを考えていたといえるのだろうかと質問しましたが、教授も、君主制を完全に廃止するというマルクスの目標が現実味の薄いもので、国民多数もそれを望んでいなかったことは事実だとおっしゃっていました。

 それ以外に、『資本論』のためのマルクスの草稿をそのまま活字として出す仕事をしておられるわけですが、その過程で、エンゲルスがマルクスの意図と違う形で『資本論』の第2巻、第3巻の編集をしたことを具体的に指摘しておられました。それは日本でも指摘されていることですが、そういう問題が現実の社会変革の運動に役立つようになるまでには、どんなことが求められるんでしょうね。

 いずれにせよ、それらに接した内田、石川両先生の頭脳を相当刺激したと思います。今晩、「マルクスの旅」での最初のお二人の対談を実施します。楽しみです。