2013年7月23日

昨日の続きである。保守との共同で政権をめざすことは、社会発展の方向性のなかでどう位置づけられるのか。

いわゆる「革新」日本をめざすという方向性があって、保守との共同というのは、そういう方向性とは逆行するもの、あるいは関係のないものだろうか。あるいは、そもそも保守との共同は運動上の問題であって、政権がどうのこうのという性格のものではないのだろうか。

そうではないと思う。いくつかの点から。

ひとつは、めざすべき政策の方向性で一致しているからだ。農業にせよ医療にせよ、いま保守の人びとが自民党政府にたてついているのは、直接には自分たちの「既得権益」が犯されようとしているからである。だがそういう状態は、いまの日本が、国境を越えた資本活動の自由化をめざすことによって、生じているものである。ということは、保守の異議申し立ては、資本のコントロールが必要だという革新の主張の基本点が、労働分野にとどまらず広がっていることの証(あかし)なのだ。だから政策的な一致点が存在するようになってきた。

そしておそらく、日本社会の将来像をめぐっても、保守と革新は一致する。いま、日本がすすもうとしているのは、国際競争を勝ち抜く強い企業、強い個人をつくるような社会であって、そうでない多数の人びとには価値がないというようなものだ。

一方、日本の保守は、それとは異なる価値観をもってきた。村落共同体に代表されていたように、人びとが支え合い、助け合っていくという社会のありようは、日本の保守の良き伝統である。それがいま、一人勝ちという言葉に象徴される資本の横暴によって、ズタズタにされている。

だから、共同体的な社会を大切に思い、復活させようとすれば、保守勢力も、客観的には資本主義を乗り越えなければならないわけだ。そして、革新の側も共同社会(コミューン)を方向性としてめざしている。資本主義の枠内での改革であっても、そこでめざしているのは、一人勝ち社会ではなく、みんなのためにという共同性の方向を向いている。

もちろん、どうすればそういう社会になるのかについて、生産手段がどうのこうのなどという複雑な議論ではすぐに合意はできないだろう。しかし、社会のありようという点では、保守と革新は一致できる。一人勝ち社会から支え合う共同社会へ、ということだ。

ということで、リベラル保守からリアリスト左翼までを対象に、どういう社会をめざして、どんな政策で一致していくのか、どんな政権構想がありうるのか、議論できるようにしたいなあ。そこを探求する本をつくっていきたい。