2016年9月23日

 昨日は、微妙な集まりに出て報告し、議論に参加してきた。何と言ったらいいか、「微妙に共産党LOVE」な人たちの集まりかな。

 まあ、その主要な中身は、ここでは書かない(書けない)。そこで議論になったことのうち、これから表舞台で議論になりそうなことを、一つだけ。

 何かというと、加憲論をどう見るかということだ。いまも新9条論が出ているけれど、伝統的なのは9条の1項、2項とも残して、3項に自衛隊を認めるという内容を追加するというものである。実際に改憲国民投票ということになる場合、この伝統的なものが復活し、投票用紙に書かれる可能性が高いと思われる。

 これはまず、「難しい問題だ」という自覚が必要だ。一言一句変えないという立場だけが護憲という方も多いだろうし、伝統的な護憲派はそうだろう。私もそういう立場は尊重する。

 一方、国民の常識からすると、9条はそのまま残り、国民の9割以上が認めている自衛隊も明記されるということで、考え方としてそれを支持する人が多数を占めることになると思う。それは間違いない。

 これではダメだという場合、いくつかの論理は存在する。しかしどれも一長一短だ。

 たとえば、自衛隊は絶対に認めないという立場で、加憲はダメという立場があるだろう。だけど、自衛隊を認めない人は、国民の1%程度だろうから、支持を得るのは難しい。

 あるいは、いまは自衛隊は必要だが、将来はなくすのだから、長期的な目標として書かないほうがいいという立場もあるだろう。だけど、立憲主義の立場からすると、憲法というのは目標を書くものではなくて、憲法通りに実際の政治は運営されなければならないということだから、立憲主義に反する立場ということになる。

 さらに、戦力を認めない9条のもとでも、ここまでヒドいことになるのだから、自衛隊のことを書いてしまったら、ただ自衛隊を認めるというだけにとどまらず、集団的自衛権の限定容認にとどまっている現在より、さらにヒドいことになるという考え方もあるだろう。それには一理二理あって、これまでの政府解釈で集団的自衛権が認められなかったのも、9条が自衛権さえ否定しているかのような書き方だけど、まさか自国を守ることさえ憲法が否定することなど考えられないから、個別的自衛権は認められるという論理だった。だから、国連憲章では自衛権は個別的と集団的と両方があるのだから、憲法で自衛権、自衛隊が認められるなら、すべての自衛権が認められるという論理が可能になり、そういう政策へと突きすすんでいく危険は大きいと思う。

 ただ、それは難しい理屈の世界である。実際に目の前に提示されるのは、「自衛隊を保持する」とか「自衛権を有する」とか、その程度のことだから、それを「ヒドい」とか「間違っている」と主張しているみたいになると、宣伝すればするほど、支持されなくなっていく可能性もある。

 ということで、時間切れなので、来週、またお会いしましょう。(続)

2016年9月21日

 民進党の代表選挙が終わり、共産党も中央委員会総会で方針を打ち出し、いよいよ野党共闘をめぐって本格的な議論が展開されることになる。前途多難だろうが、意味のあることだから、関係者にはがんばってほしい。

 ただ、いまの議論を見ていると、あまりかみ合っているように思えない。私なりに何が大事と思うかを書いておこう。

 蓮舫さんが綱領の違うところとは政権を組まないと言った。これはまあ、まだ物事の理解が十分ではない方の、成長途上の言明だ。綱領は違うけれど、基本政策が一致できれば、政権を組むことは可能になる。

 この点では、前原さんが一貫して言っているように、基本政策が違うところろは政権は組めないというのが、合理的な態度だと思う。前原さんは、日米安保、自衛隊、天皇制、消費税などを基本政策としてあげている。

 共産党もこのブログで書いてきたように、基本政策の一致が政権をともにするための前提だと言明してきた。とりわけ日米安保問題が試金石だと言ってきた。この点では、政権問題での基本的な考え方は、共産党と前原さん(おそらく民主党全体も)は一致し
ているわけだ。

 問題は、じゃあ基本政策とは何かということだ。民進党は日米安保と自衛隊を堅持することが基本政策である。そこは動かない。 

 じゃあ、共産党はその問題ではどうなのか。綱領は、日米安保廃棄、自衛隊の段階的解消を明記している。安保と自衛隊をなくすことが日本の平和にとって不可欠だという立場である。

 そこで共産党は、そういう立場を野党共闘、連合政府に持ち込まないと明言している。それは大事なことだが、安保と自衛隊が日本の平和にとって大事だという民進党と、それをなくすことが日本の平和にとって大事だという共産党では、あまりに真逆であって、誰が見てもうまくいくはずがないと思うだろう。民進党が不安を感じるのは当然だ。

 ここを打開するカギとなるのは、共産党が2000年の22回大会で、自衛隊を解消するための3つの段階を打ち出したことである。そこでは、日米安保を解消するのは第2段階で、自衛隊の解消は第3段階とされている。つまり、第1段階は、日米安保も自衛隊も存在することが前提となっていることだ。その段階では、軍縮や海外派兵阻止などを政策として掲げていることである。

 その立場に立って、第1段階での政策を、基本政策だという位置づけにすれば、民進党との接点が生まれるように思える。少なくとも綱領のなかには、安保と自衛隊解消が基本政策だと書いているわけではないし、第2段階(安保廃棄)に至るのだって何十年もかかるだろうから、それほどまでの長期間に通用する政策を基本政策(当面の基本政策というのでも構わない)と位置づけても、全然おかしくない。もし、民進党が求めているように、綱領にそういう記述を入れられるならベストだ。

 問題は、基本政策というからには、その政策が連立のための戦術というものでなく、国民の命にとって大事だという思想がなければならないことだ。だけど、参議院選挙の最中に出た法定ビラでは、憲法九条を守ることも国民の命を守ることも大事だという文脈で自衛隊は解消しないと明言したわけだから、乗り越えるべきハードルは高くないように感じる。

2016年9月20日

 いま話題沸騰の文春新書『国のために死ねるか』。サブタイトルに「自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動」とあるが、著者の伊藤祐靖氏は、自衛隊初の特殊部隊とされる海自の「特別警備隊」創設の中心にあった人だ。2等海佐で退官している。

 このブログで書評を書いてほしいと献本され(著者からではないが)、だいぶ前に読み終わっていた。放置していたわけでなく、運命のいたずらに啞然として時を過ごしていたというところだろうか。

 著者が特殊部隊創設にかかわったのは、99年に発生した北朝鮮の能登半島沖不審船事件が発端である。このとき、著者はイージス艦「みょうこう」の航海長をしており、不審船発見とともに出動し、不審船を発見する。それを海上保安庁に通報し、やってきて威嚇射撃をする巡視船とともに逃走する不審船を追いかけ、捕捉しようとするわけである。

 しかし、燃料がなくなった巡視船は戻ってしまい、「みょうこう」に対して海上警備行動が発令される。その結果、乗組員は、威嚇射撃をして不審船を停船させ、立ち入り検査をすることを求められる。そんな任務を遂行するための訓練もしていないし、それにふさわしい装備があるわけでもないのに、立ち入らなければならない。死を覚悟して準備することになる。

 この本のスゴイところは、その現場で命令する立場にあるもの、される立場にあるものの気持ちの動きがリアルに描かれることにある。そして、その教訓をふまえ、自衛隊がどういう思想で特殊部隊を創設したのかが描かれるのも、大事な点である。

 ただ、事件の結末は言うまでもないだろう。誰も立ち入ることはなかったし、死ぬこともなかった。理由は、不審船が威嚇射撃のなかを逃げおおせたからだ。

 なぜこれを私が運命のいたずらと表現するのか。それは、これが私にとっても、覚悟を決める事件だったからだ。

 当時、私は、共産党の政策委員会で安全保障を担当していた。その頃の共産党の安全保障政策は、いわば「非武装中立」となっていた(そういう言葉を使って表現していたのは上田副委員長だけだったが)。日本の平和と安全が脅かされた場合、軍事力ではなく、海上保安庁を含む警察力で対応するということだった。

 しかし、能登の不審船事件が明らかにしたのは、海保どころか海自さえ不審船を捕捉できないという現実だった。不審船は、過去には日本人拉致に関わり、当時も麻薬の密輸入などの犯罪に使われていた。それなのに、その不審船を捕捉できない能力、法律を放置するようでは、やはり日本国民の安全に責任を負える政党とは言えないと感じたわけである。

 詳しい経過は省くが、共産党は翌年の22回大会で、いわゆる自衛隊活用論を打ち出す。そしてその翌年、海上保安庁の巡視船が威嚇射撃だけでなく船体射撃ができるような法改正が提案されたのに対し、賛成の態度を表明することになる(海保は当時の運輸省に属していたが、共産党が賛成したのに政府がびっくりして、扇千景大臣が議員のところに挨拶にやってきた)。

 威嚇射撃というのは、船体そのものには当てないで、近くの空や海に向けて撃つわけだ。北朝鮮の不審船はそれを知っていて、どうせ当たらないのだということで、ゆうゆうと逃げ切ることになる。

 船体射撃は、まさに船体を破壊するわけだから、その結果、船が沈んで乗員が死亡するかもしれない。それでも、それが必要だという判断だった。

 これは、当時の共産党の考え方のなかでは、かなりぶっ飛んだものだったと思う。強い反対があって難航した。逃げおおせたほうが被害がお互いに少ないのだから、法案には反対すべきだという根強い主張もあった。というか、人数としてはその考え方のほうが多かったのだが、それを押し切って賛成したわけだ。法律がつくられてからも、「共産党が軍事力の使用に賛成するなんて裏切りだ」という意見が多数寄せられた。

 しかし、相手が不法行為をしているのに(もしかしたら拉致された日本人が不審船に乗っているかもしれない)、それを見過ごすことは、市民運動にはできても、政治の立場ではできないし、政治に責任を負う政党にもできないのだ。その決断だった。

 まあ、その現場に立たされた著者と私を比べるのはおこがましいのだが、気持ち的に通じるものを感じる。著者はその後、特殊部隊の仕事から外され、結果として自衛隊を退職するに至るのだが、そこまで含めて気持ちがかぶさってきた。

 ということで、書評が遅くなってすみません。著者の伊藤さんは、12月24日に開かれる「自衛隊を活かす会」の「自衛隊に尖閣は守れるか」をテーマにしたシンポジウムで報告をしてもらいます。ここには陸将、空将も参加します。乞うご期待。

2016年9月16日

 各紙で報道されていますが、昨日、加藤紘一さんの葬儀が営まれました。惜しい方を亡くしたというのは、こういうことを言うのでしょうね。

 加藤さんといえば、私がかもがわ出版に入社し、最初につくった本で推薦の帯文を書いていただきました。『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る』という本です。サブタイトルに「防衛省元幹部3人の志」とあります。

 防衛省や自衛隊の方に9条を守る立場を語ってもらうというのは、いまでは常識のようになっていますが、この本が出た2007年には、まったく異例のことでした。「かもがわ出版は変質した」と言われたものです。

 そういう状況ですから、かもがわ出版の従来の読者からは購買を拒否されることも予想され、より広い層に呼びかけることが必要になります。自衛隊の準機関紙と言われる「朝雲」に広告を掲載してもらったのも、その一環でした(これが実現した複雑な経緯は活字にはできませんが、私の講演会に来てくれた人にはお話しすることがあります)。

 帯をどうするかも、要検討でした。著者の一人である竹岡勝美さん(元防衛庁官房長)によると、歴代の防衛庁長官のなかでは加藤紘一さんの評判がいいからという推薦がありました。しかし、加藤さんは自民党の幹事長を務めた方でしたし、9条に自衛隊のことを位置づけるべきだという論者でもありましたから、引き受けてくれるかどうか分かりません。

 それで恐る恐るお手紙を差し上げたのですが、すぐにOKの返事があったのです。秘書の方にお会いして推薦文(最後に掲載)を受け取りましたが、その際、右へ右へと動く世の中のなかで、いま9条を変えてはならないという確固とした信念が加藤さんにあって、それで引き受けたとの説明を受けました。

 発刊した本には大きな反響がありました。従来型の護憲の本が行き詰まっていたなかで、7刷りくらいになったでしょうか。自衛官からも電話があって、お世話になった方に退官の際に配りたいのでと、70冊くらいまとめて買っていただくということもありました。

 ただ、いわゆる民主書店といって、共産党がかかわる書店では、この帯は外して売られることになりました。ですから、そういう書店で買った方には、自民党の加藤さんが推薦してくれたことは伝わらなかったと思います。いまでは、加藤さんだけでなく、自民党のかつての幹部が競うように「赤旗」に出ているのを見ると、隔世の感があります。なお、共産党の名誉のために言っておけば、当時、「赤旗」での書評は掲載されています。中身は評価するが、自民党の幹部が推薦するものはダメ、ということだったのでしょう。

 加藤さんとのほんとうにわずかな交錯から感じるのは、基本的な立場が違う人であっても、どこか大事なところで共感する場合があるのだから、立場が違うからといって対話を閉ざしてはならないということです。安倍自民党のなかにも、そういう人がいるのに、反感が先走って見失っていることがあるかもしれません。思いこみで人を見るのではなく、その人と深くつきあい、判断していかなければなりません。

 そうでないと、この本も出版されることはなかったし、加藤さんに帯文を書いてもらうこともなかったでしょう。加藤さん、安らかにお眠りください。

(以下、加藤さんの帯文)
 私は、憲法に自衛力をもつことを明記すべきだと思っている。しかし、憲法の書き換えは、歴史上大きな断絶があったときしか出来ない。「平和外交基本宣言」としての現行憲法を書き換えてもいいという国内外の信頼感は、まだ醸成されていない。だからこそ、条文に対する議論はもっとなされていい。この本の著者三氏の言葉には、温かな血が通っている。「国を愛する、国民を守る」という決意の一つの形がここにある。(了)

2016年9月15日

 いま、『プラハの春』という小説を読んでいる。文庫の上下巻で合計900ページにもなる大作だ。

 もちろん、68年のプラハの春をテーマにしたもので、チェコスロバキアのドプチェク、ソ連のブレジネフなど関係者が実名で登場し、ソ連の軍事介入に至る経過をリアルに再現している。ここまで詳しく書いたものは、論文でも読んだことがなかったので、勉強にもなった。その後、ソ連共産党の書記長になるアンドロポフ(当時はKGB議長)が改革派として登場していることも含め、著者(当時、プラハ在住の外務公務員)の観察眼は鋭い。

 まあ、でも、それだけで小説になるわけでなく、平行して国際恋愛が描かれる。プラハの春の叙述がリアルなだけに、恋愛のほうも現実かと思わせるのだが、実際はおそらくまったくそうではないだろう。だって、60年代の後半の時代に、日本の外務公務員と東欧の共産党籍の女性が恋愛に落ちて(不幸にも結婚はできなかったが)、なおその後も公務員を続けられたなんて、ちょっとあり得ないことだからね。

 ここは小説の書評をするブログではないけど、なぜこれを取り上げているかというと、いま話題の二重国籍問題が出て来るからだ。小説にも外務公務員法第七条の引用が出て来るのだが、それは以下のようなものだった。

 「……国籍を有しない者若しくは外国の国籍を有する者又はこれを配偶者とする者は、外務公務員となることはできない。外務公務員は、前項の規定により外務公務員ができなくなったときは、政令で定める場合を除く外、当然失職する」

 本人の二重国籍を禁止していただけでなく、配偶者が外国籍であることもダメだったんだね。海外に赴任して生活するわけだから、その国の人と恋愛関係に陥ることは少なくなかっただろうから、酷な規定だったと思う。

 そういう現実に押されたのだろうね。96年、この配偶者規定は削除されたそうだ。

 よく指摘されるように、日本の法体系は(憲法もそうだが)、日本国籍を有するものを重視するものになっている。外国との交渉にあたる外務公務員にはとりわけその考え方が適用されるのは、自然なことだと感じる。

 しかし、よく考えてみれば、外務公務員法がこうなっていると強調されるのは、他の公務員にはそういう要件が必要とされないということなんだよね。憲法は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(第15条)となっていて、国会議員をはじめとして公務員を選ぶのは、日本国民固有の権利だということだが、選ばれる公務員のほうには二重国籍禁止規定はないということだ。

 しかも、外務公務員法も、配偶者が外国籍でも構わないということになった。全体として、憲法の枠を変えることはしないが(関係ないけど、外国籍の人にも参政権を与えるため憲法改正しようと安倍さんが言いだしたら、護憲派は困ったことになるよね)、外国籍の排除という考え方を断固として貫くみたいな方向ではないわけだ。

 憲法15条って、少なくとも国会議員については、合理的な考え方だと思う。なぜかといいうと、国会議員というのは、日本国民が「国民固有の権利」を行使して選ぶからである。主権者が、「この人でいい」と言っているものを排除するというのは、国民主権の原理にそぐわない。だから、蓮舫さんの問題は、やはり憲法を含む法的な問題ではない。

 問題となるのは、判断を国民に委ねるという構造になっているのに、蓮舫さんの問題を判断する材料が、その国民に与えられていなかったことだろうね。その材料が与えられないまま(あるいは間違った材料を与えられて)選挙がされてきた。

 その点で、この問題は、次に選挙の洗礼を受けるまで長引くかもしれない。蓮舫さん、総理大臣をめざすということもあるのだから、衆議院の補選がどこかであれば、挑戦することが求められると思う。