2016年11月11日

あとがき

●現在の人々に何ができるかが大事
 戦後七〇年以上経ってもなぜ対米従属が続くのか。この問題を歴史的な角度から論じてきました。
 対米従属が続く理由は、本書で明らかにしてきたように、いろいろなものがあります。ただ、そこから抜け出す上で現在の人々に何ができるのかが、この問題での結論でなければなりません。
 戦後、アメリカが日本を占領し、日本を言いなりになる国にするため、戦犯勢力とも結託して支配したこと。その後も旧安保条約のもとで、かたちの上では独立しているのに事実上の従属状態が継続したこと。その体制を打破するとしてつくられた新安保条約下においても、それ以前の状態がくり返され、それが慣習にまでなっていったこと。これらは日本の現在を理解するために大事なことです。
 しかし、いま指摘したことは、もう取り戻すことのできない過去に属することです。対米従属の原因としてそれらを指摘することはできても、過去のできごとをなかったことにはできません。本書が最後の結論として、日本型核抑止力政策の形成が従属の根底にあるのを指摘したことは、その転換は現在生きている人々によって可能な事柄だからです。過去のしがらみがあまりにも強いため、防衛政策の転換を成し遂げるには想像を絶する努力が必要とされるでしょうが、不可能ではないと思うからです。
 では、防衛政策の転換はどうやったら実現するのか。その道筋は容易ではありません。現在の自民党は、抑止力に対してみじんの疑念も持っていないと思われ、政策転換を期待することはできないでしょう。

●民進党──失敗を真剣に総括し、対案に挑むべきだ
 民進党はどうでしょうか。対等の日米関係を掲げ、普天間基地の県外移設を約束して政権についたのが民主党でしたが、結局、抑止力の呪縛から抜け出せす、国民を裏切ることになりました。ところが、現在の民進党の政策は、引き続き「抑止力の維持」を明記しています。
 おそらく民進党のなかでは、抑止力というものの定義すらできていないと思います。ただ抑止力への信仰だけが存在しているのでしょう。そして、普天間問題での大失敗の責任は鳩山氏一人に押しつけ、政権から引きずり落とされた原因を議論することもせずにいるわけです。
 しかし、政権についた直後、自民党政権が何十年も隠し続けてきた核密約を公開するなど、抑止力の中心問題の一つで新しい試みを行った実績はあります。新安保法制反対の世論が高まったなかで、自民党と同じ防衛政策ではいけないという自覚は、さらに高まっているようにも見えます。
 民進党に政権獲得への意欲がまだ存在するなら、普天間問題の責任を人ごとのように捉えるのでなく、みずからの問題として徹底的に議論すべきです。民進党の政策では、「抑止力の維持」を明記したあと、「普天間基地については固定化を招くことなく、沖縄県民の思いに寄り添いつつ、合意可能な基地移設の包括的解決をめざして、日米が沖縄と対話を重ねることとします」とされています。
 かつて、「抑止力の維持」を大原則としていたから、民主党は沖縄の声を裏切ることになったのです。それなのに現在も、「沖縄県民の思いに寄り沿う」とか「(沖縄も)合意可能な……解決」と主張しつつ、「抑止力の維持」は変えないでいる。この矛盾を乗り越えない限り、民進党が再び国民の信頼を得て政権を奪還することはできないし、奪還したところで同じことのくり返しになるでしょう。
 普天間基地問題も解決するし、日本国民の不安にも応えられる防衛政策はどんなものか。過去の責任を徹底的に究明した上で、民進党にはそこに挑んでほしいと思います。

●共産党──自衛隊の活用を基本政策とすべきだ
 日本共産党はどうでしょうか。共産党はかつての社会党による「非武装中立」政策を批判し、自衛権の発動を明確にした「中立自衛」政策を掲げていた時代があります。抑止力については徹底的に批判しつつ、国民の命を守るためには、憲法九条を変えるようなことがあっても、独自の防衛政策が必要だと考えていたのです。
 九〇年代半ば、憲法九条を将来にわたって堅持するという態度変更を行った際、防衛政策についても「警察力での対応が基本」ということになってしまいます。しかし、それでは侵略された際に国民の命への責任が果たせないとして、二〇〇〇年、この問題では三つの段階を経るのだという政策を打ち出しました。
 第一段階は、自衛隊と日米安保の存在を前提として、軍縮や海外派兵には反対する段階です。第二段階は、日米安保は解消し(自衛隊は存続)、日本周辺の平和と安定をつくりだすことに注力する段階です。そして第三段階が、平和と安定が確固としたものになったとして、自衛隊の解消に踏みだす段階です。そして、この経過的な期間に日本が侵略されることがあったら、自衛隊を活用して反撃するとしたのです。逆に言えば、侵略の不安を国民が抱えている間は、第三段階には移行しないということです。
 この考え方は、共産党の大会で決まったものですが、その後、長く注目されることはありませんでした。しかし、新安保法制反対の世論が高まり、共産党が野党に「国民連合政府」での共闘を呼びかけるなかで復活し、この政府は自衛隊と日米安保の存在を前提にしたものであるとされたのです。
 ということは、第一段階というかなりの期間、侵略には自衛隊と日米安保で対処するという点で、共産党は民進党などと政策が一致しているということです。ところが一方で、第一段階の考え方を基本政策だと位置づけていないためか、民進党とは基本政策が一致していないという態度をとっており、それが野党間の違いを国民に印象づけ、自民党などからの「野合」批判に口実を与えているように見えます。ここをどう乗り越えるのかは、共産党の課題でしょう。

●国民自身の覚悟が問われている
 野党共闘が何らかの化学変化を起こすとき、何らかの前向きな政策が生まれるかもしれない。それが私が現在抱いている印象です。
 大失敗の原因をいまだ総括していないが、国民には寄り添わなければならないともがいている民進党。自衛隊の位置づけを明確にできないが、国民の命には責任を負わないといけないと考えている共産党。この二党が、他の野党とともに、抑止力に替わる防衛政策をどうするのかを徹底的に議論する時、その先に、国民にとって魅力のある防衛政策が生まれるのかもしれません。
 そして、新しい防衛政策をもって政権獲得の選挙に臨み、抑止力を漫然と掲げる自民党に対峙する時、国民にとっては戦後一度も存在することがなかった防衛政策での選択肢が与えられるのです。自民党がそこで政権維持が不安になるほどに追い詰められれば、自民党のなかにも抑止力一本でいいのかという戸惑いも出て来て、新しい防衛政策への探究が勢いを増すことでしょう。
 ただし、この問題でもっとも大事なことは、政党任せでは解決しないということです。日本型抑止力依存政策が長きにわたって堅持されてきたのは、国民のなかにそれに頼る気持ちがあったからです。アメリカの核兵器に守られれば安心だという気持ちと、だが被爆国の国民として核兵器に日本は関与していないことにしておきたいという気持ちと、さらにアメリカに依存することによる負の側面は沖縄に押しつけておいて見ないことにしたいという気持ちと、それらの絶妙なバランスの上に成り立っていたのが、日本型核抑止力依存政策です。
 そこを国民自身が徹底的に反省し、見つめ直し、新たな防衛政策に勇気を持って踏みだすのでなければ、この転換は起こりません。その転換に本書が少しでも役立つなら、筆者として望外の幸せです。(了)