2013年11月22日

 昨晩、学生時代の友だちと会食していました。いまや大新聞の大幹部なんですけど、仕事の話ではありません。とはいっても、昔を懐かしむような年でもなく、安倍内閣とか、秘密保全法とか、グローバリズムとか、そんな話にはなってしまうんですけどね。

 そこで、私の本のことが少し話題になって、その流れで、「革マル」の話をしたら、大受けでした。何の話かというと、「革マル」が、機関紙「解放」で、執拗に私の批判をしているという話です。

 まあ、興味のある方は、ネットでも「解放」の一部が見られるので、どうぞご覧ください。若い方なんか、「革マル」と聞いても、まったくご存じないでしょうけど、ある世代にとっては懐かしい名前でしょうから。

 そうです。正式には、「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」というんです。いわゆる新左翼と呼ばれた暴力集団のことです。

 私は73年の大学入学であって、いわゆる学園紛争は落ち着いていたので、リアルに詳しく知っているわけではありません。だけど、先輩のみなさんからは、「革マル」などがゲバ棒で襲ってくる話とか、監禁されてボコボコにされた話とか、だいぶ聞かされました。私が入学した頃は、北海道と沖縄の一部にまだ生息していて(東京の早稲田の杜にもごく一部)、「北と南の端から暴力を最後まで一掃しよう」とか言ってました。

 で、その「革マル」が、私の憲法論がきらいみたいなんですよ。いや、「革マル」に好かれるのは困るので、きらってほしいんですが、そのきらい方がすごいんです。だって、彼らはなんと、即時「非武装」しかあり得ないという立場で、私を批判しているんですよ。

 だから大受けだったんです。だって、あれだけ重武装して、学生を襲撃していた連中がですよ、「非武装が理想!」なんて言うんですから、大笑いでした。

 私は、ずっと非武装の理念をかかげて貫いている方とか、沖縄のように日本軍に肉親の命を奪われた経験から軍隊そのものを拒否している方とか、そういう方から批判されるのは歓迎なんです。だけど、暴力集団から非暴力を貫けと言わても、ちょっとね。

 それと、私のその友だちは、別にマルクスをそんなに勉強したわけではありませんが、非武装なんてことをマルクスが主張するなんてあり得ないくらいは知っています。それで、「そんな連中がマルクスなんて名前をつけてるのはおかしいでしょ」という話になって、せめて「革トル」と命名しなくちゃという結論が出ました。

 「トロ」ではありませんよ。「トロ」だったら「トロツキスト」みたいですから。そんなこと言ったら、最後まで革命の信念を貫いたトロツキーに対して失礼でしょ。

 そう「トルストイ」ですね。それも最晩年のトルストイです。だって、初期の大作である『戦争と平和』は、ナポレオン軍の侵入と戦うロシアの人びとを描いたわけですからね。『革マル』も最晩年を迎えているということでしょうか。

2013年11月21日

 昨晩、福島に行きました。来年3月9日に福島市音楽堂で開催する企画の相談です。

 かもがわ出版は、3.11の1年目、福島の浜通で、伊勢﨑賢治さんのジャズヒケシと蓮池透さんの講演会を開きました。詳しい経過ははぶきますが、これだけの事故が起きて、出版にも全力をあげたわけですが、ただ本をつくるというだけでなく、3.11の日は、体も福島に寄せていたかったという感じでした。

 そして、2年目の今年もやりました。池田香代子さん、齋藤紀さん、清水修二さんにいよる福島再生をテーマにしたシンポジウムです。

 3年目の来年、場所を浜通りから福島市に移します。そうなったのにはふたつの理由があります。

 ひとつは、伊勢﨑賢治さんが福島高校の社会科の授業を教える機会があって、つながりができたのです。そうしたら、そこに全国でも珍しい高校生のジャズ研究部があることがわかって、そのジョイントをやるなら福島市内ということになりました。このジャズ研、「あまちゃん」の音楽を担当して評判になった大友良英さんが、第3代の部長をやったことでも有名です。

 もうひとつは、弊社の事情です。この6月、「あの日からずっと、福島・渡利で子育てしてきました」という本を出したのです。

 福島で育っている高校生が主役で出演し、福島市・渡利の子育ての本を出したわけですから、これは福島でやるしかありません。それも子育て関連企画になるのは自然な流れでした。

 それで、本の著者である佐藤さんご夫妻と話し合い、いろいろ準備をしてきたのです。そして昨日、さらに他の子育て中の方も加えて、議論をしてみました。

 いやあ、なかなか難しいですねえ。福島で子育てすると決断した人も、避難した人も、避難先から帰ってきた人も、みんなが出演し、理解し合える企画にしようとしたのです。それ自体は、いつかは求められることだと思います。だけど、福島市内でやるわけですから、参加するのは市内で子育てしている人です。そういう人がいま現在何を望んでいるのかを考えた場合、はたして、そういう相互理解なのだろうかという点で、意見が噴出しました。

 そのなかで出された意見は、私としてはどれも頷けるものです。だから、もう一度、企画の案を作り直して、提案することになりました。

 でも、こうやってみんなが何を考え、何を求めているかを考えることって、出版のことを考えても大事です。求められている本でないと売れませんから。だから、直接に本とつながらない仕事なんですが、出張旅費を使う価値は、十分にあるんです。

2013年11月20日

 結局、安倍政権を特徴づけるのは、「軍事」一般ではなく、「戦争挑発型の軍事と外交」というようなものである。それをただ「軍事優先」だと言ってしまうと、侵略に対する防衛という、いわば当たり前の軍事をも批判しているように見えてしまって、侵略されたら自衛するのは当然だと考える人はついてこれない。

 これに対して、対抗勢力が提起すべきは何か。それは、どう言うかは難しいけれど、「憲法九条型の軍事と外交」なのだと考える。

 もちろん、九条と軍事は矛盾するものであって、このテーゼだけで理解が得られるとは思わない。だけど、憲法九条と自衛隊の両方を、これまで日常的なものとして捉えてきた多くの人にとっては、受け容れてもらえる可能性があるのではないだろうか。

 問題は、この間のいろいろな宣伝その他によって、憲法九条のもとでは効果的な軍事戦略ができないと思われていないところにある。それをどう克服し、この道こそが日本の主権を守るうえでもっとも効果的かを打ち出せるかが課題である。戦争挑発型の軍事と外交は本当に戦争を招いてしまいかねないが、憲法九条型の軍事と外交は、平和的だからいいというだけでなく、安全保障戦略としてふさわいいと捉えてもらえるようにすることだ。これが今年に引き続き私の来年における課題でもある。

 しかし一方、そうはいっても、軍事はどんなものでもダメという方々もいる。だから、実際には、次のような構図をつくりだすことが肝要だと考える。

 闘うべき相手は、やはり「戦争挑発型の軍事と外交」を進める勢力である。何かあれば抑止力で相手をたたきつぶすことを目標としてかかげ、そのための軍事力の整備を進め、憲法九条の改変をもくろむるような勢力だ。こう位置づければ、相手は少数だということになると思われる。相手を軍事一般を大切にすると位置づければ、相手の方が多数になってしまうだろうけど。

 他方、仲間にすべき相手は、大きくいってふたつの勢力がある。

 ひとつは、軍事力を否定し、外交だけでやっていくと考える勢力。絶対平和主義の人びとと言ってもよい。ただ、これは数としては、少数にとどまる。

 もうひとつが、すでにのべた「憲法九条型の軍事と外交」を考える勢力。これは、九条と自衛隊の両方を肯定するわけだから、数としては圧倒的多数だが、潜在的なものにとどまっている。そんな考えがあることを自覚していないからだ。しかし、それが現実的なものであることが示されれば、目に見える勢力となっていく可能性がある。

 このふたつの勢力が共闘するわけである。気持ちのよい共闘ができれば、いまは「戦争挑発型の軍事と外交」が政治の世界では圧倒的多数をしめるけれど、それに対抗できる勢力へと成長するのではないか。世論の上だけでなく、政治の世界での多数へとである。

 本日は、いま東京にいて、福島に向かいます。(完)

2013年11月19日

 安倍さんの政権ができて、中国による軍事的対応の教科を前にして、日本側も軍事対応をするという感じが強まっている。中国みたいに軍事費も連続的に増やそうとしているしね。

 そういう事態があるので、平和勢力のなかでは、「軍事ではなく外交で」というスローガンが、よけいに勢いを増すことになる。だけど、これは現状にふさわしいんだろうか。

 私には、安倍さんのやり方は、軍事的な対応だから問題だということではないように思える。軍事対応のなかでも、かなり特殊なやり方をしているところに、安倍さんの問題はあるのではないだろうか。

 だって、安倍さんが強めようとしている「抑止戦略」。昨日も書いたように、この戦略というのは、ふつうの国が採用している戦略ではない。何かがあったら相手国に壊滅的な打撃を与える戦略であって、超軍事大国だけが採用できる戦略だ。

 そして「集団的自衛権」。これも、海外に軍隊を展開する能力をもつ国だけが行使できる権利である。その能力をもたないふつうの国は、行使したくてもできない。

 その安倍さんのやり方を「軍事」一般という枠で捉えてしまうのは正しくない。いろいろな問題が生じる。

 何よりも、安倍さんのやろうとしていることの異常さが伝わらないだろう。軍事対応自体は、軍事能力をもつ国だったら、どの国もすることだ。スプラトリーにおける中国の挑発に対して、フィリピンやベトナムも自国領土を守るための軍事的対応はするのだ(外交的な話し合いもするけれども)。ところが安倍さんのやろうとしていることは、相手国を壊滅するための準備だったり、自国領土が攻撃されていないのに武力を行使することだったり、ふつうの国はやらないことなのだ。軍事対応一般ではないのである。

 しかも、安倍さんを「軍事」一般で捉える結果として、国民の支持の広がりをおさえてしまいかねない。だって、国民多数は軍事も外交も両方が必要だと思っているのに、「軍事はダメだ」と言ってしまったら、軍事は必要だと考えている人びとは、ついて来れなくなってしまう。

 とくに、数年前といまの情勢が根本的に異なるのは、尖閣における中国の対応とか、北朝鮮の核開発とかミサイル問題があって、日本の主権が侵害されることを国民が現実的な問題として感じているところにある。そういうときに、外交努力の大事さはどんなに強調してもしすぎることはないけれども、それといっしょくたにして、軍事一般を拒否するようになってしまっては、軍事の必要性を感じている人びとの支持は得られない。

 そういうことの結果、国民の支持が、外交のことしか言わない平和勢力から離れ、軍事も外交(その価値観外交の中身は問題だが)も両方をやっているように見える安倍さんに流れていく。それが、この間の選挙結果にあらわれた国民の気持ちだろう。(続)

2013年11月18日

 平和運動ではよく聞かれる言葉である。「軍事力ではなくて外交で」と言い換えてもよい。

 もちろん、いろいろな問題を軍事力でなくて外交で解決することは望ましいし、大事なことだ。外交的な解決の余地があるのに、目の前で軍事力による対処がおこなわれようとしている場合、そういうスローガンは大事だと思う。だけど、そういうスローガンを、いつでもどこでも通じるものとして提起することは、適切なのだろうか。

 一般的にいっても、問題を軍事か外交かの2項対立で捉えてしまうと、複雑な現実を捉えきれなくなる。国連憲章だって、紛争の平和的・外交的な解決のために最後まで力を尽くすべきことを規定しているが、それでも侵略がやまない場合、軍事的な解決に乗りだすことは想定している。軍事か外交かどちらかしかダメというものではないのだ。

 多くの国民も、軍事派と外交派に分かれているわけではない。どっちも大事だと考えているだろう。どこかで書いたことだけれど、政府が3年に1回やっている世論調査では、8割から9割が自衛隊の存在を認めている。しかし同時に、そういう人びとが外交は不要だと考えているかというと、そんなことはない。また逆に、外交努力の必要性を認める人に対して自衛隊が不要かと尋ねれば、とんでもないということになるだろう。

 さらに大きな問題は、こういうスローガンを一般化すると、軍事も外交も一色に塗りつぶされることだ。軍事のなかにもいろいろあって、アメリカみたいに何かあれば他国を殲滅する戦略をもち、そのための兵器を開発・保有し、そのための訓練を欠かさないという軍事もある。一方で、ASEAN諸国のように、自国防衛に必要な最小限度の武器を保有し、遠く海外に出かけていって集団的自衛権を行使するなんて考えない国もある。それらを一緒くたにして「軍事はダメ」ということになると、現実が歪んでしまうわけである。

 これは外交でも同じだ。外交なら何でもいいということではないというのが、歴史の教えるところだ。ヒトラーがチェコのズデーデン割譲を要求したのに際し、イギリスなどが戦争を回避する立場からそれを認めたことは、その結果がドイツのさらなる侵略につながっていったことともあわせ、あまりにも有名である。

 では、どう考えればいいのか。どういうスローガンならいいのか。(続)