2013年11月28日

 辻井さんとはずっと前からお会いしたいと考えていた。だけど、実際にはじめてお会いできたのは、出版社に入り、本の執筆をお願いするためだった。

 最初の本は、『心をつなぐ左翼の言葉』(2009年)。当時、「ロスジェネ」の編集長だった浅尾大輔さんが聞き手となって、辻井さんの考えを聞き出したものである。

 「ロスジェネ」もそういう性格の雑誌だったが、当時からずっと左翼の退潮が続いていて、多くの方がその原因は何かを考え、模索していた。そのなかで、ときどき雑誌や新聞で拝見する辻井さんの言葉は、私にとってとても納得できるものだったのだ。

 たとえば辻井さんは、九条の会などに講演に行くと、このような発言をしておられた。

 「理論的には正しくても、相手の心に届かなかったり、相手を傷つける言葉がある」「必要なのは敵を味方にする言葉だ」

 それは、私の心にグサッと突き刺さった。自分の正しさを疑わない人は、自分を変革することはできない。左翼が多数になるには、退潮する左翼の中でだけ通用する言葉を使っていても仕方がない。敵を味方にする以外に多数にはなれないのだから、そのためには敵の心を知って、どこかで通じ合えるような言葉を発する必要がある。そう考え、本をつくりはじめていた私にとって、バイブルのように響くことになったのだ。

 この本をつくったあと、京都にお呼びして講演会をおこなった。その時、ある参加者が、自分の義理のお父さんと第二次大戦の評価の問題で(侵略かどうか)、何回も説得するのだが、意見が合わずけんかになる、どういう言葉が求められるか、と質問した。それに対して、辻井さんは、そんなにけんかするんじゃなくて、お酒でも飲んで、人と人との心のふれあいやきずなを大切にしたらどうかと答えていた。そうだよな、やはりそういう人と人の関係があって、ようやく言葉も通じるよなと納得したことも思い出す。

 次につくったのが『司馬遼太郎覚書』(2011年)。新船海三郎さんがインタビューし、それをまとめたものである。

 ちょうどNHKで『坂の上の雲』が放映され、日露戦争を「自衛」戦争と描くやり方に左翼からの批判が高まっていた。私は、『坂の上の雲』が文学作品として優れているとは思えなかったのだが、じゃあ日露戦争を美化する作品かというと、そういう見方にも違和感を覚えいていた。政治の世界では、安保闘争などで、積極的な役割を果たした方でもある。ましてや、これだけの国民的な人気のある作家を一刀両断に切って捨てるような評価では、ますます左翼の偏狭さが浮き彫りになるのではと憂えて、何とか司馬遼太郎評価を豊かなものにしたいと思い、辻井さんにお願いしたものである。

 「司馬史観と呼ばれるものは個別具体的な物事を大事にするという点では、明らかに保守的であり、権力・権威主義を嫌う点では間違いなく革新的に思えた」

 「あとがき」で辻井さんがこうのべておられるように、司馬史観というものは、保守とか反動とか、そういう単純な評価を許さないものである。そんなものだったら、これだけの読者を獲得することにはならなかっただろう。文学にあらわれた歴史観をどう捉え、どう評価するかという点で、この本は、第一級の重要性をもっていると確信する。

 『心をつなぐ……」も『司馬遼太郎……』も、率直に言って、私が無理矢理押しかけていってお願いしたものだ。きっと、辻井さんには、それまで面識もなかったものからの急なお願いだし、とまどいもあっただろうと思う。それでも、とっても広い心で引き受けてくださった。

 その背後にあったのは、日本の左翼が豊かになり、成長し、多数になることへの期待だったと思う。辻井さんから教えていただいたことを糧にして、これまで進んできた道を、さらに前に向かっていきたい。

 辻井さん、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。